エッセイ

2016年10月 7日 (金)

デジタルとは? 

「おーい、君が見つかってよかったよ。」
そう言って彼は手を振った。



上の文の中に、アナログな部分とデジタルな部分があります。それはどこか、説明できますか?

「デジタル」というとここ十数年で普及したパソコンなどを想像しがちですが、実はそうではないのです。

デジタルとは例えば数字のように0なのか1なのかによってまったく意味が異なってしまうことを指します。

つまり、上の例の中でデジタルなのは「ことば」全部であり、アナログなのは「手を振った」の部分です。

言葉はデジタルだ、そう言われると戸惑うかもしれませんが、紛れもないデジタルです。

例えば「君が見つかってよかったよ」を変えてみましょう。こんなのはどうでしょう。「君」を「りんご」に変えます。

「リンゴが見つかってよかったよ」

もとの会話とはまったく異なる内容になってしまいました。

その他の部分を変えてみても同じようなことが起こります。

では、アナログな部分とは?

実は、「大きく手を振った」のところです。

アナログとは、0か1ではなく境目が曖昧で変化による絶対的な影響を受けないものをいいます。

つまり、手を振っている人が2秒間に2往復する早さで手を振っても、小刻みに少し手を振っても、手を振って友情を示しているのには替わりありません。

そもそも手を振る速さを正確には測れないでしょうし、測る必要をわたしたちは感じません。

手を振る大きさが5センチ違っても、毎回ちょっとずつ異なっても意味は変わらないわけです。

変化しても、それによってまったく異なったものにはならない。これがアナログです。

手を全く同じ速さで振り続けるのも人には困難でしょう。

さて、現代の割と年配の方々は、デジタルというものを誤解している方がいらっしゃるようです。

パソコンなどは確かに電子的技術の結晶です。しかしパソコンなどを「デジタルだから」というひと言で片付けるのは間違っています。

「デジタル」という言葉はある意味、定義に過ぎません。

デジタルなんちゃらを毛嫌いするというのは言語の正確な意味から見ると正しくないのです。

もう一度考えてみてください。IT技術がきらいなのか、デジタルがきらいなのか。

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2014年8月22日 (金)

文章戦国時代

 知り合いへ、大学の宿題について聞いた。
「手書きか、ワードか?」
 答えは
「ワードに決まってるじゃん」
 現代になってはそうなるのが普通らしい。
 まず、教授が宿題を読むという時点で、物理的に読めない字があるのはまずい。さらに、データの管理の面からいっても、デジタルの原稿のほうが扱いやすい。
 いわれてみれば当たり前のことばかりだ。
 別の知り合いが大学生になったとき、宿題は手書きかどうか聞いた。すると彼は
「パソコンだよ。手書きはありえない」
 そういった。それをいまさらながら思い出した。
 パソコン原稿は早い。凄まじい速度で出来上がる。これだって、印刷してしまえばもう出来上がりなのだ。文字数カウントだって自由にできるし、校正も推敲も自由自在。わからない漢字だって変換できてしまう。そして誰が書いたとしても、読みやすい活字となって印刷されてくる。こんなに便利なものを使わない手はない。
 しかし、ごく一部の間で、手書きが良いのかそれともワープロの時代に合わせるのかという議論があることは忘れてはならない。
 もっとも、これはごく一部の話で、全体の勢いとしては圧倒的にパソコン全盛だ。
 物語を作るストーリーテラーとして、一度は手書きで書いてみる必要があることは確からしい。けれど、そうまでしてやることなのか。新しい時代には新しい物事のやり方があっても良いのではないか。
 新しい時代の中にも、古さや伝統に心惹かれる者がいるのも歴史が証明している。わたしはこの傾向がある人間だと思うが、それでもこうやってキーボードで文字を打っているとあまりの高速さに驚くとともに、便利さを痛感する。
 特にワープロ文は早いので、自分の脳の速度についてこられることが一番素晴らしい。手書きだと、自分の脳の速度に手が追いつかず汚い字になったり、もしくは漢字が思い出せなくて手が止まったりする。非常なストレスである。モッタイナイ。
 ワードでいい文が書けるんだったら書いたらいい。
 いまどき、もし手書きで書いたってどこかの段階でワードに打ち込まなければいけない。それは大変な面倒だ。だったら最初からデジタルで原稿を書いたほうが良い。
 ただ、多くの作家がデジタルで原稿を書くようになって、作家の生原稿が残らなくなったのは寂しいものだと思う。作家の愛用していた万年筆とか、原稿用紙とかがなくなって、どのパソコンでも、どの机でも良くなってしまうのだろう。
 考え様によっては、文字を書く敷居が限りなく低くなったといえる。つまり、パソコンさえあれば文章は作れる。万年筆やら原稿用紙やらを揃えなければいけないという経済的な縛りはなくなるのだ。
 どこの誰だって作家(アマチュアもしくはプロ)になれるチャンスがある時代が来たことだといえる。ブログは無料で作れるし、情報の発信はまったくの自由。ただし責任は自分でしっかりと取らなければいけないが……。
 大変な時代になった。
 これから、文章の戦国時代になる。
 売れる文がどれだけ書けるのかで、生き残れるかどうかが決まっていく。本当に価値のある文章は希少になっていく。そういう価値のある文を書き残し、また価値のある文章を見つける能力を持っていること、それがこれから大切になってくるだろう。
 日本語はこうだから面白い。手書きがどうの、ワードがどうのと世界中から孤立して議論をし合っている。本当にこの国は文化的にガラパゴスだ。

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2014年7月29日 (火)

呼吸

 上手な息遣い。実はそれが、バイオリンの演奏にとても大事なのだ。
「バイオリンの演奏に呼吸?」
 そう思われる方もいるかもしれない。しかし、呼吸は演奏技術があるのを大前提とすれば、その次に大切なものなのである。呼吸自体が技術の一つといえるかもしれない。
 それを端的に理解するのには、アマチュアとプロの演奏の仕方を見比べてみるとよくわかる。
 プロの演奏は見ていてとても美しい。楽器の動きとともに、演奏者も適度に動いている。音がきれいであるだけでなく、見た目もカッコイイ。
 アマチュア、それもあまりうまくないアマチュアは、演奏が見ていて不自然だ。音に乗っているのはわかるが、その乗り方が乗りすぎだったり、逆にカチコチで体が上手く動いていなかったり。
 これらを左右するのがズバリ、

 呼吸

 なのである。
 基本的に、バイオリンを演奏するときは、アップボウは息を吸い、ダウンボウは息を吐く、となっていると思う。その他には、演奏の開始時やちょっとした演奏の区切りに息を吸う。
 わたしもバイオリンを始めたばかりだった頃は、「呼吸」というものがまったくできなかった。理屈はなーんとなくわかるのだけれど、演奏する段になると呼吸のことなんて頭から吹き飛んでしまう。息を上手くできないので体がカチコチになり、ときどき気づいてみると息が詰まっていて胸が苦しいなんてこともあった。それだけ呼吸が不自然だったのだ。
 確かに曲の終わりの方へ近づいてくると、自分自身の気分が高まってくるのがわかる。盛り上がってくるのだ。それと同時に、「あと少しなんだから失敗しないようにしなきゃ」というまだ未熟な心も顔を出してくる。これらのダブルパンチを受けてしまうと、アマチュアは大概呼吸が苦しくなってくる。
 呼吸が上手くできていない演奏は、見ていてかっこよくない。全般的になにかかっこよくない演奏は、体のどこかにムリがかかっている。不自然なのだ。
 最近になって、アマチュアのわたしはようやく呼吸が自然にできることが多くなってきた。演奏技術に少し余裕が出てくると、呼吸にも頭が回るようになってくるらしい。そして呼吸が上手くできるようになると、技術にも余裕が生まれてきて、理想的な循環へ入ることができる。
 バイオリンを始めてみて、ここまでたどり着くのにだいぶ時間がかかった。けれどまだ、プロのような自然な演奏には程遠く、こうやって書いてみて自分の論理を確かめてみるのが、演奏していない時にできる「練習」だとも思う。
 ひたすら弾くのが練習では決してなくて、自らがどうやって演奏しているのか、などその他諸々を考えることがバイオリンの上達には必要だとわたしは考えている。
 音楽は、レベルが上がってくると、技術という観点から哲学という観点へ考え方が上昇する。そこまでたどり着くことのできる奏者は、やはりプロだろう。アマチュアが哲学を考えてみてももちろん良いのだが、そのような難しいことに頭を悩ませているよりは、現実的な練習を積むほうが良いのではないだろうか。
 まず、プロとアマチュアではキャリアが違う。プロというのは大体三歳とかそれくらいの幼い頃から毎日バイオリンを弾いているのであり、また「音楽大学」という音楽について学ぶ「大学」を出ているのだ。そんな人と同じことをアマチュアがやろうとするのは、考え方によっては自分を追い詰めているだけといえるのではないだろうか。
 アマチュアが上を目指してはいけないのか?
 そんなことはまったくない。目指していい。けれど、音楽で生きていこうと思っているのでなければ、程々にやるのが一番いい。音楽を学ぶということは果てしなく遠い世界へ足を踏み入れることである。深く学ぼうとすれば、音楽に疲れてしまうだろう。音楽をなぜ始めたのか、自分ならどうか?
 基本的に音楽は楽しみたい。そういう人が多いと思う。
 演奏にもそれぞれのやり方があると思うが、楽しむことが大事だ。音が苦(おんがく)になってはしかたない。
 弾くって楽しい!それが原点だろうから。


 そしてちなみに、まったく演奏をしない方のために補足しておくと、演奏中の呼吸は、全て鼻呼吸である。

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2014年6月17日 (火)

書く楽しさを

 わたしの知り合いに、塾をやっているものがいる。その塾長は、文章を書くことについてこういった。
「原稿用紙?ありゃだめだ。小学校の時の夏休みの宿題がトラウマだな。読書感想文を思い出してまったく書けん」
 そういった。
 しかし、同時にこうもいった。
「パソコンだったらね、いくらでも書けるね。フラストレーションがたまっている時なら、レポート用紙三枚はあっという間に書いちゃうんじゃないかな」
 事実彼はそういう人である。
 なぜこうも日本人は原稿用紙に憎悪にも似た感情を抱いてしまうのか。
 わたしは原稿用紙が大好きである。
 まず、原稿用紙とは何なのか。googleで翻訳してみるとManuscript paper もしくは Japanese writing paper と出てきた。
 よくよく考えてみると、なぜ日本の文章作成には原稿用紙を使うのか。第一の目的としては文字数を数えるためだろう。しかし、これは恐らく明治以降に作られたものだと思う。考えてみてほしい。日本人は筆で文章を千年以上綴ってきた。筆で原稿用紙が書けるだろうか?かなり難しいと言わざるを得ない。現実的でない。だから、たぶん原稿用紙の歴史は近代文学が始まった明治から使われ始めたものだろう。
 一体誰がその始祖であるかは今回は置いておくとして、なぜ、ここまで嫌われるのか。
 わたしは、教育の仕方が悪いと思う。原稿用紙を使えばなんでもできるという可能性を教えずに、ただ義務的に宿題として書かせるのではまったく意味がない。「原稿用紙アレルギー」を増やすだけである。果たして夏休みに読書感想文を書く意義がどれだけあるのか。具体的に例をあげて説明してほしい。
 基本的に、原稿用紙を前にペンを取ったら、もうその人が立っている土俵はプロの作家と同じである。そう聞いて、ワクワクしないだろうか。確かに作家とは差があるかもしれない。しかし物理的には同じなのだ。子どもたちにそのことが教えてあげられたら、少しは文章づくりが楽しくなるのではないかとわたしは思う。
 現在、子どもたちの作文コンクールではワープロ不可というものがほとんどだ。逆に小説などの新人賞では手書き不可の賞がかなり増えてきた。
 もし、子どもたちがワープロソフトを使うことでより質の高い文章を書けるのだとしたら、それは奨励されるべきではないだろうか。それに抵抗のある「大人たち」がまだいるのだとしたら、せめて手書き部門とワープロ部門を併設したらどうだろう。それぞれに選考基準を変えてみるなど、いくらでも工夫の余地はあるだろう。
 伝統だからと惰性的に続けているのなら、やめてしまったほうがいい。子どもたちは創造性のかたまりだ。それを大人たちの価値観や尺度に当てはめて考えてしまうなどと、言語道断だ!
 もし、パソコンを使っていると漢字が書けなくなるとかいう大人がいたら、その人物は豆腐の角に頭を激突させてみるといいだろう。
 子どもたちは漢字を充分使う訓練を受けている。書き取りや、日々のテスト、ノートを取るのもちゃんと出来ているではないか。子どもたちはノートをパソコンで取っているとでも言うのか?むしろ現代の社会人のほうが漢字を書けないのではないかと思う。
 子どもたちの可能性を、大人のつまらない理屈で狭めないでほしい。
 原稿用紙は、別に嫌われても構わない。結果的に、文章が書けるようになればいいとわたしは思っている。最初に書いた塾長の例もあるとおり、最近では媒体を問わず文が書けることが大事だ。ただ、原稿用紙を使うことは、日本語の文章を書く上での基礎的な部分を養ってくれることは間違いない。だからわたしは手書きを最初は勧めるが、別にどんな方法で文章を書いたっていいと思っている。
 ブログやSNSで文章を書く機会が圧倒的に増えた。そんな時、正しい文の書き方をするか、それとも顔文字に頼った説得力の欠ける文章を書くか。その辺りで人の品格が問われてくるだろう。
 これから、正しく文を書けることが大切になってくる。そして文を書くことを楽しんでほしい。
 

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2014年5月26日 (月)

竜馬がゆく、が読み進まない

竜馬がゆく。何ヵ月前に買っただろう。現在三巻を読んでいる。なかなか読み進まない。
なぜか、面白いのだけれど読み進めることができない・・・・・・。
わたしは司馬さんの本はあまり読んだことがない。というより、坂の上の雲しか読んだことがない。坂の上の雲は素晴らしいと思った。これだけ壮大で事柄の多岐にわたることをよく調べあげて、ひとりで作り上げられたなと、もはや神業のように感じている。
坂の上の雲連載時は、パソコンなんて当然ない時代だった。どうやってあれだけの文章を書きおえたのだろう。
まあ、IT製品のあるなしの話題は少し置いておいて、わたしが司馬さんを特に尊敬する理由は、彼のネーミングセンスが素晴らしいからだ。
坂の上の雲。これは、幼い国家であった日本と日本人が感じていた文明国への憧れを表現したものだという。
こんな素晴らしいタイトルが、連載開始と同時に思い付くだろうか?(坂の上の雲は新聞連載である)
タイトルは、わたしだったら書き終えたときに考える。文章の主題は先頭に書いておくけれども、それを発表する題としてそのまま書けることはわたしの場合少ない。
日本が歩んでゆく道、先進国へ通じる坂。その先に浮かんでいる雲。叙情的表現だが、当時の現実そのものだ。

のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすればそれのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう(ちょっとうろ覚え)

あとがきより。

雲という遥か高いところに浮かんでいるものへ、わたしたちは憧れを抱く。それを国に例えた。何て素晴らしい題名だろう。しっかりと主題をとらえながら、その小説の終了まで破綻がない。とても今のわたしごときでは足元にも及ばない。
司馬さんのさらにすごいところは、その作品の量だ。どれも質がとても高いのに、作品が怒濤のようにたくさんある。すごすぎる。本屋へいくと、ほとんどどの出版社からも本が出ている。そしてどの出版社もたくさんの司馬さんの本が並んでいる。
作家を見るひとつの見方として、その作家の死後その本がどれだけ読まれるか。というのがあるという。死後10年で読まれなくなる作家なら・・・・・・。いや、作家評なんてやめよう。
話は戻って、竜馬がゆく。読み進まない。
今より若かった頃は、熱い友情物語がある三国志だったり、宮本武蔵だったり、そういうものに惹かれたが、ちょっと年を取ってみるとなんだか斬り合いとか、熱さとか、そんなものが嫌い(どうでもいい、かも)になってきた。
今はもっと理論的であったり、人生観であったりとかそういうものをわたしは求めているのかもしれない。となってくると、一巻で挫折しているトルストイの「戦争と平和」を読むべき時期が来ているのかもしれないと思う。
ロシア文学は、世界的に与えた影響が大きい気がする。ただ単純な問題として、登場人物の名前が長い。けれど、わたしはカタカナが好きなので、こういう長い名前は歓迎だ。
余談ながら、ロシアと通じる話題ではないが、覚えにくい名前ほど覚えやすい。そんな矛盾は感じたことはないだろうか?アウストラロピテクスとか、覚えている人も多いのではないか。さらに、それを忘れようと思うほど、覚えてしまう。たぶんここで、わたしがゾーイ(今とっさに思い付いた)と書くと、これ(ゾーイ)を忘れようと思うほど、忘れるのが困難であることに気づくのではないか。ちなみに、ゾーイというのは女性名である。確かイタリア系の。
全く、人間は面白い。
もし、人の読書にバイオリズムがあるとしたら、それも面白い。またいつか、熱血物語が読みたくなるのかもしれない。
読書は人生の宝だ。本を読まなければ得られない考え方というのは確かに存在する。現代は存在し得ない人の人間模様を見るのも読書だし、いつの時代も変わらない人の心を読み取るのも読書だ。もちろん、読書からすべての経験が得られるなんてことはないが、全く読書をしないよりはほぼ100パーセント生活の質は向上するだろう。自らを高めてくれるのは確かである。
本を読むときは読むとき、読まないときは読まないとき。今はわたしは読まない時期なのだろう。
人によって読書というものは作法があるものらしい。ある人はひとつの作品を一気に読むし、あるひとは複数の作品を並行して読む。どちらがいいとはわたしは言えないが、わたしならひとつの作品を一気に読む。物語が佳境になると読むスピードまで速くなって、ページをめくるのがもどかしい。そんな経験を、本嫌いの人は一度してみてほしい。
もっとも、読書をしなくても充分生きていける。全く自由なのだ。
余談だが、雑誌の読み方も、人によってそれぞれあるようで、最後のページから読むという人もあるようだ。気まぐれというか、雑誌を逆に読むといったい何がいいのだろう。わたしは批判するわけではない。純粋に興味深いと思う。そういう習慣は、誰に教わったのでもなくできてゆく。自分が元々持っているのだろう。そういう読書体系を分析してみても面白い。そのうち「東大生の読書の仕方」なんて本が出るかもしれない。
想像はつきないが、このへんにしておこう。竜馬がゆく。の読了はいつになるだろうか。

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2014年5月21日 (水)

文芸の時代の流れ

昨日、本屋に行って「小説の書き方」みたいな本をいくつか読んできた。
わたしが思うに、どれもたいして変わらない上に、値段に内容が釣り合っていない。これくらいの情報だったら、ネットを駆使すれば全部手に入る情報だと思ったし、事実知っていることばかり書かれていた。その本は、「確実に名前を出して出版していること」というくらいしか価値がないように思われた。
一方、わたしは小説家になりたいとは思っていない(たぶん)。現実としてめちゃくちゃ厳しそうだからだ。それに、わたしは芸能人の類いが好きじゃない。なんだか、好きじゃない。けれど文章を書くのは好きだ。
文を書くことがある意味で芸術であり、小説を書くと芸能の分野に頭を突っ込むことになるというのは、なんともいたたまれない現状だ。
自分の書いた本が売れるというのは面白いことかもしれない。けれどわたしにはなんだか抵抗がある。別に出版が決まったわけでもないのであるが。
本を出すこと、というのは人前ではだかになるのと同じだと養老さんがいっていた(バカの壁)。
本当にそう思う。
まあ、インターネットにこうやって書いていることも、それとおんなじじゃないかと言われてしまうと、反論のしようがない・・・・・・。
ところで、人にお金を払ってもらってまで読んでもらう価値のある文章って、いったいどれくらい存在するだろう。
例えば、雑誌の連載で読みたいものがあって買うとしても、それは純粋な意味で「その文のための」出費といえるだろうか?。
雑誌にはありとあらゆる文章が載っている。別に見たくもない文章が載っているのだ。ほとんどそうだ。でも、その中のひとつが読みたいために雑誌を買う。とすれば、旧来の文を読む文化は無駄がなんと多いことだろう。これだったら、雑誌を買う人はどんどん減ってゆくだろうとわたしでも理解できる。
自分の読みたい文だけを求めるのなら、ネットで十分だと考えるのが、最近の思考ではないだろうか。つまり、無駄を許容できるかどうかがアナログな文を買うかどうかに繋がってくるわけだ。
紙の雑誌。読みたいところなんて、限られている。でも、偶然読んだところに面白い発見があるかもしれないし、あとで何かの役に立つかもしれない。
だから、紙の雑誌も、なくなることはない・・・・・・と思うかもしれない。ところが。
インターネットというのは、読んだものは履歴としてプロバイダーなどが収集している。アマゾンで例えば時計について閲覧したあと、ホーム画面に戻ってみると時計の広告がジャーンと載っている。
つまり、気になる記事を読んだということも、情報として残っているのである。それを元に、ネットの新聞社、ないし総合サイトはユーザー向けに記事を編集するプログラムを組んでおけるわけだ。
そうすれば、ほぼ紙の雑誌と同じ、偶然の記事との出会いが、ネット上で再現可能なのだ。
文芸誌を買うなら、読みたいことは大体文芸だろう。スポーツ紙ならスポーツ関係のことだろう。そんな風に、アナログの時点で買うべきものを志向しているのだから、ネットで似たような考え方ができないわけはない。
それより、ネットの方が、途方もなく広い繋がりを持っているから、可能性も限りなく無限だ。
紙に親しんだ世代が消え去る時代になったら、紙の雑誌は消え去るだろうとわたしは思う。
小説。いったいこれからどんな文芸の時代がやって来るのだろう。あまり輝かしい希望に満ちた時代ではなさそうである。
でも、この時代の転換点に立てていることは、面白いことだろうと思う。注意深く、見ていこう。

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2014年5月 5日 (月)

休みの終わり

 ゴールデンウィークもまもなく終わろうとしている。今回の連休は、わたしにとってもとても早く感じられた。
 休みというのは、何歳になってもいいものだ。昔は休みといったら、父や家族と一緒にどこかへ出かけたり、公園や広場でボールを使っていろいろ遊んだりもしたものだ。
 子どもの頃というのは本当に豊かなものだと今にして思う。ボール一つさえあれば、何時間だって遊んでいられた。わたしたちは常に新しい遊びと刺激に動かされて、豊かな子供時代を送ったのだと思う。日が暮れるまで遊びに遊んで、家へ帰っていった。懐かしい日々だ。
 そこから考えてみると、現代の子どもたちは、ほとんど大人に操られているといっていい。ゲームやスマートフォンの普及と発達で、生活は豊かになっただろうか。一見自由になった気がするが、そんなことはない。子どもたちは、そんなものをやっている限り大人の敷いたレールを走ることしかできない。彼らは本来可能性に満ちていて、一秒一秒が将来への糧となるものだというのに……。大人の引いたレールなんて、子どもの可能性の前においてはまったく硬直しきったつまらない理論に過ぎない。子どもたちは、そんなことは超越した存在なのだ。
 彼らの持っている可能性を無限に伸ばしてあげるのが大人の仕事であろう。いったい今の大人たちは、子どもたちから自由や想像力や時間を搾取することしか能がないのかと、まったくもって悲しく思う。
 子どもたちは、もちろん楽しいことが好きだ。ゲームだって楽しいからやっているのだろう。それはわたしもそうだった。けれど、気がつけばディスプレイを眺めている生活はよした方がいいと私は思う。大体、現代においては大人になればどっちみちディスプレイとにらめっ子する生活になるのだから、子どものうちからそんなに「仕事」に励まなくてもいいとわたしは思う。
 本当に楽しいこと、それも子どものうちにしか感じられないことはあるはずだ。
 わたしたちは、ごく原始的な欲求を持っている。子どものうちは、それらをより強く感じられるだろう。
 虫を取ったり、駆け回ったり、釣りをしたり、美しい風景を見たり。子どもの時に、ディスプレイじゃあない本当に美しい本物を見ておいてほしいと思う。
 公害がひどかった一時期と比べれば、現在の河川は随分綺麗になったと思う。都市の設計も、自然と共存するように変わってきている。つまり、子どもたちが再び自然の中に囲まれて生活する環境は整いつつあるのだ。
 しかし、ごく一時的に異常発達した文明の利器が、自然から子どもたちを遠ざけていはしないだろうか。
 現代っ子から見たら、虫取りなんてもしかしたら野蛮なことだと思うかもしれない。けれど、虫を取るために自然の中を駆け回り、なんとか虫を取る。それは変えがたい喜びだし、駆け回ることで体の基礎ができてくる。子どもの時にできた丈夫な体は一生を左右する。何にも変え難い宝だ。
 虫を取っても、もしかしたらその虫は死んでしまうかもしれない。けれど、子どもたちはそれから命の大切さを学ぶことができる。
 生きていることとは何なのか、答えられなくてもいい、ただそれを感じておいてほしい。
 ステーキを見ておいしそうだというのに、屠殺される家畜を見るとかわいそうだという。この矛盾はそう簡単に解決できるものではないが、自分が生きているということは、何かの生命を奪っているのだという、どうしようもない命題にぶつかってみることも必要なのだとわたしは思う。
 ゴールデンウィークが終わる。その寂しさみたいなものが、この文を書く原動力になった。こういう休みの日には、過去や現在に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。

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2014年5月 4日 (日)

わたしは毒舌?

 一見いい人に見えた人が、ポツリと悪口を言うのを聞いてしまったことで、その人のイメージが一気に悪いものになってしまう。
 そんなことはないだろうか。
 人間に対するイメージなんてものは、案外いい加減なものなのである。
 たった一言でイメージが変わってしまう。言葉というのは、単にしゃべるだけで発することができるものだが、それが発言者の思いもよらぬところまで行ってしまうこともあるのだ。
 揚げ足を取る。という表現がある。実に姑息である。発言の趣旨を批判したいのであるが、その発言が理にかなっている、しかしなんとかそいつを蹴り落としてやりたい。某国の政○の舞台でよく見られる光景である。
 わたしはそんな光景を皮肉と毒舌を持って見ている。この人物たちに国を任せておいて大丈夫なのだろうか……。
 それはさておき、わたしは一般的に見て善人だろうか。
 他人から見てそう見えるかもしれないが、わたし自身は自分の笑顔の下に何かしら潜ませていることがある、と実感している。
 しかし、他人を害することはない。
 日常に様々なことがある。それらを自分なりに処理して、自分がスムーズに毎日を過ごせるようにする。そのごく自然的な反応によって起こってくるのが毒舌とか、皮肉なのだ。あくまでもわたしの場合は。
 だから、別に悪いことではない。と私は考えている。
 けれども、わたしは元来が陽気な人間なので、そこまで深刻に他者をこき下ろすことはない。他人をこき下ろして満足するのは、ゲスのすることであろう。まして他人をこき下ろして自分を偉く見せようなんて奴は、豆腐の角に頭をぶつけてみるべきなのだ。
 毒舌を言い合える環境というのは、相互に信頼関係が存在していることを意味している。信頼関係のない人へ言おうものなら関係は破綻するし、非常識である。
 単なる毒舌は悪い影響しかほぼ与えないであろうが、愛のこもった毒舌をぜひともぶちかましてほしいものである。
 その点、「皮肉」というものはもう少し安全圏にある言葉ではないだろうか。
 単語について考えてみると、
 皮肉
 というものはごく一場面での発言であろう。が、
 毒舌
 という言葉は、その人物の性格を表していることが多いように感じられる。
 わたしは毒舌家かもしれない。他人が伝えてくる文章については常に疑問を持って受け取っているし、その文を自分ならこうするだろうと常に校正を考えている。文を書きたいという人間なので、性といってもいいだろう……。
 あまりいい印象のない毒舌と皮肉という言葉だが、これは考え方によってはいいことだろうとわたしは思う。
 なぜなら、毒舌や皮肉をいえるということは、少なくとも自分の考えを持っているということだからだ。何も考えを持っておらず、ただ漠然と不平不満を持っているのは不健康極まりない。
 ものは考え様なのだ。

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2014年5月 3日 (土)

書くことは抑止力

 文章を書くことは、抑止力になってしまうとわたしは考えている。
 つまり、例えば新聞を書くとして、それにある身勝手な自己主張を書くとする。しかし、身勝手で読むに値しないと考えたとしても、購読者の家へは自動的に配達されてゆき、読むことになる。
 そういうことなのだ。
 少し例としてはわかりにくかったかもしれない。
 文章というのは、目にした瞬間にある程度のイメージが体の中に残るものだとわたしは思う。つまり、前の例を前提にすると、自分の考えとまったく違うことがあるという情報があらかじめインプットされてしまうことになる。
 実際にその知識が目の前に立ち塞がることは少ないとしても、その道は、まったくの平坦な土地ではなくなってしまっているわけだ。この、視野にちょっとだけでも入ってしまった情報が、人の行動の切っ先に、ほんの少しではあるが「間」を生み出してしまうのではないか。これがわたしの考える文章の抑止力だ。
 実際に人の行動を制約してしまうような文章は少ない。けれども、間接的に制約(のような形)になってしまうことがあるのではないか……。
 文を書く立場の人間が、これを悪用しないなどとどうやって証明できるだろうか。誰も証明できないだろう。
 たくさんの購読者がいる新聞が、間違った情報を元に何か書きまくったらどうなるだろう。世論が、ほんのわずかかも知れないが動きだすかもしれない。文章を書く立場の人間は、よほど深く考えて文を書くべきである。
 毎日書かなきゃいけないから、スピードが大事、なんていうのは詭弁である。人を動かしてしまう可能性のある文を書く媒体は、理想を言えば推敲や検証になるべく時間をかけ、正しい情報と公正な文章づくりをしなければ絶対にダメだ。
 はっきりいって、紙の新聞に速報性を求める人は現在となってはほぼいないだろう。そして毎日出版しなければいけないなどと、そんなことは一体誰が決めたのか。別に毎日なくたって、生活に困窮するわけではない。
 新聞に限定して言えば、速報性などまったく気にせず、自分たちの立っている立場をよく考えた文章を載せるべきだとわたしは思う。
 公正でなければならないとはいわない。必ずしもそうではないし、人の意見が新聞に反映されてはいけないとは思わない。つまり、新聞自体がある意見の方向性を持っていたっていいと思う。その方向性があるから、売れる新聞もあるし第一どの新聞を買うのかはまったく購読者の自由なので、この点だけいえば、新聞は何を書くのもおおよそ自由だ。
 が、しかし、大きな新聞社ほど注意するべきである。世論を形成する力が強いからだ。大きな力を持っているほど、その力の使い方にはよくよく用心しなければならない。
 抑止力とは、そういうものだろう?

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2014年4月18日 (金)

ゆめのすこしあと

 ゆめのすこしあと
 
 夢を見て 目が覚めて

 君はいなくて……
 
 わたしはブレスオブファイアIVというゲームが大好きだ。「ゆめのすこしあと」はそのエンディングテーマ。
 このゲームを初めてやったのは、友人のKくんの家だった。彼がこのソフトを持っていた。
 
 わたし自身、我ながら変わっていると思うのだが、ゲームをするのはそれほど好きじゃない。「自分の買ったゲームの記録を進めてもらうところを見る」のが好きなのだ。すこしややこしいか。
 自分はあまりやらない。そして誰か代わりにやってくれる人を見つけて、やってもらい、わたしはそれを横で見ながら口出しをする。そんなゲームの楽しみ方がわたしは好きだった。
 わたしが子どもだった頃、街にはいくつかゲーム屋があった。ゲームソフトを専門に売り買いしている店だ。近頃はその類の専門店は軒並み潰れてしまった。
 それらが潰れてゆくとき、わたしは一抹の寂しさを感じた。時代の流れには逆らうことができない。けれど、一つの時代の象徴としてそれは確かに存在したのだ。
 ゲームに関して言うと、プレステ3が出て以来、もうゲーム機は購入していない。必要を感じなくなったのだ。
 プレイステーション2、この登場は革命的だったのではないだろうか。このハードがDVDの普及にも役に立ったと言われているが、この登場は子どもたちにとってもすごいことだったのだ。
 わたしがプレイステーション2で主に遊んだのはフライトシミュレータだった。戦闘機を自由自在に飛ばすのは非常に訓練と理解が必要で、とても難しかった。しかし友人と毎日夢中でやるうちに、日はどんどん過ぎていった。
 ただ、ゲームに夢中でいられるのはせいぜい小学校までだ。中学へは、友達はほぼ同じ中学へ進学したがそれぞれに部活や塾で忙しくなって、ゲームなどやっている暇はなくなってしまった。わたし自身も同様で、テニスの練習や(部活)塾へいって勉強するのに忙しくなった。もちろん疎遠になったわけではない。別の面で充実していった。
 いつの間にかプレイステーションはホコリをかぶるようになった。こうやって、子どもたちはゲームから離れて行ったのだろう。
 ごく近年。1,2年前か、PSPのゲームアーカイブスというサービスの中で、ブレスオブファイアが配信されていることを知った。早速ダウンロードしてみると、懐かしさに感動した。
 
 わたしはギリギリ「アナログ」を心に留めている世代だ。だから、現在のゲームっ子たちを見ていると、すごく危うい感じがする。具体的に何かといわれると反論しづらいのだが、どうもいけない。
 最近のゲームのコマーシャルを見ていると、いい大人がスマホを握ってゲームするような場面がある。これは活を入れなければいけないだろう。喝か。
 ゲームをやってストレスを発散するような大人は三流だとわたしは思う。大人なら、小さな画面をずっと眺めているより、そんな時間があったら散歩をするべきだとわたしなら言う。
 空の青さや緑の美しさは、小さな画面の中などでは到底わからないことだ。何も絶景を見ろというのではない。日常の中の風景にも、美しさはいくらでも隠れている。それを見つけ出すのが散歩という楽しみ方だ。
 
 日常の仕事に追われて、疲れ果てる。しかし眠っているときに、わたしたちは夢を見る。それがどんな夢か、すでに覚えていないけれど、そうやって夢を見ることは子どもの時から変わらない。
 夢を見て、目が覚めて。そこから学校へ駆け出していった自分と、今の自分。それはどう違っているだろう。子どもの頃に見た「夢」は、いま形になっているだろうか?
 例えそうではないとしても、それはそれでいい。
 
 毎日、夢の少し後、わたしたちは一日を始めるのだ。明日も、その先も……。

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