« エアパークへ | トップページ | 竜馬がゆく、が読み進まない »

2014年5月21日 (水)

文芸の時代の流れ

昨日、本屋に行って「小説の書き方」みたいな本をいくつか読んできた。
わたしが思うに、どれもたいして変わらない上に、値段に内容が釣り合っていない。これくらいの情報だったら、ネットを駆使すれば全部手に入る情報だと思ったし、事実知っていることばかり書かれていた。その本は、「確実に名前を出して出版していること」というくらいしか価値がないように思われた。
一方、わたしは小説家になりたいとは思っていない(たぶん)。現実としてめちゃくちゃ厳しそうだからだ。それに、わたしは芸能人の類いが好きじゃない。なんだか、好きじゃない。けれど文章を書くのは好きだ。
文を書くことがある意味で芸術であり、小説を書くと芸能の分野に頭を突っ込むことになるというのは、なんともいたたまれない現状だ。
自分の書いた本が売れるというのは面白いことかもしれない。けれどわたしにはなんだか抵抗がある。別に出版が決まったわけでもないのであるが。
本を出すこと、というのは人前ではだかになるのと同じだと養老さんがいっていた(バカの壁)。
本当にそう思う。
まあ、インターネットにこうやって書いていることも、それとおんなじじゃないかと言われてしまうと、反論のしようがない・・・・・・。
ところで、人にお金を払ってもらってまで読んでもらう価値のある文章って、いったいどれくらい存在するだろう。
例えば、雑誌の連載で読みたいものがあって買うとしても、それは純粋な意味で「その文のための」出費といえるだろうか?。
雑誌にはありとあらゆる文章が載っている。別に見たくもない文章が載っているのだ。ほとんどそうだ。でも、その中のひとつが読みたいために雑誌を買う。とすれば、旧来の文を読む文化は無駄がなんと多いことだろう。これだったら、雑誌を買う人はどんどん減ってゆくだろうとわたしでも理解できる。
自分の読みたい文だけを求めるのなら、ネットで十分だと考えるのが、最近の思考ではないだろうか。つまり、無駄を許容できるかどうかがアナログな文を買うかどうかに繋がってくるわけだ。
紙の雑誌。読みたいところなんて、限られている。でも、偶然読んだところに面白い発見があるかもしれないし、あとで何かの役に立つかもしれない。
だから、紙の雑誌も、なくなることはない・・・・・・と思うかもしれない。ところが。
インターネットというのは、読んだものは履歴としてプロバイダーなどが収集している。アマゾンで例えば時計について閲覧したあと、ホーム画面に戻ってみると時計の広告がジャーンと載っている。
つまり、気になる記事を読んだということも、情報として残っているのである。それを元に、ネットの新聞社、ないし総合サイトはユーザー向けに記事を編集するプログラムを組んでおけるわけだ。
そうすれば、ほぼ紙の雑誌と同じ、偶然の記事との出会いが、ネット上で再現可能なのだ。
文芸誌を買うなら、読みたいことは大体文芸だろう。スポーツ紙ならスポーツ関係のことだろう。そんな風に、アナログの時点で買うべきものを志向しているのだから、ネットで似たような考え方ができないわけはない。
それより、ネットの方が、途方もなく広い繋がりを持っているから、可能性も限りなく無限だ。
紙に親しんだ世代が消え去る時代になったら、紙の雑誌は消え去るだろうとわたしは思う。
小説。いったいこれからどんな文芸の時代がやって来るのだろう。あまり輝かしい希望に満ちた時代ではなさそうである。
でも、この時代の転換点に立てていることは、面白いことだろうと思う。注意深く、見ていこう。

|

« エアパークへ | トップページ | 竜馬がゆく、が読み進まない »

エッセイ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« エアパークへ | トップページ | 竜馬がゆく、が読み進まない »