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2014年4月

2014年4月30日 (水)

寺へ

わたしの住んでいる市の北部にあるお寺へ行ってきました。

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鬼瓦

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ちょっとかくれて……。

そして、どん!

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三重塔です。

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中の方はこんな感じでした。
しかしながら、実は中には入っていません。
ケチ(殴
ではなくて、拝観時間が終了していたんです。
ちょっと残念でした。

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2014年4月22日 (火)

オリオン大星雲その後

良いソフトが見つかったので、もう一回載せようと思います。

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どうでしょうか。オリオン大星雲です。
季節的にもう見るのは厳しいですね。
(撮るのも同じくです)
春霞なんていいますけど、かすみすぎてますよね。
これはいけない。星の撮影にも人体にもよくありません。
困りますね。

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2014年4月18日 (金)

ゆめのすこしあと

 ゆめのすこしあと
 
 夢を見て 目が覚めて

 君はいなくて……
 
 わたしはブレスオブファイアIVというゲームが大好きだ。「ゆめのすこしあと」はそのエンディングテーマ。
 このゲームを初めてやったのは、友人のKくんの家だった。彼がこのソフトを持っていた。
 
 わたし自身、我ながら変わっていると思うのだが、ゲームをするのはそれほど好きじゃない。「自分の買ったゲームの記録を進めてもらうところを見る」のが好きなのだ。すこしややこしいか。
 自分はあまりやらない。そして誰か代わりにやってくれる人を見つけて、やってもらい、わたしはそれを横で見ながら口出しをする。そんなゲームの楽しみ方がわたしは好きだった。
 わたしが子どもだった頃、街にはいくつかゲーム屋があった。ゲームソフトを専門に売り買いしている店だ。近頃はその類の専門店は軒並み潰れてしまった。
 それらが潰れてゆくとき、わたしは一抹の寂しさを感じた。時代の流れには逆らうことができない。けれど、一つの時代の象徴としてそれは確かに存在したのだ。
 ゲームに関して言うと、プレステ3が出て以来、もうゲーム機は購入していない。必要を感じなくなったのだ。
 プレイステーション2、この登場は革命的だったのではないだろうか。このハードがDVDの普及にも役に立ったと言われているが、この登場は子どもたちにとってもすごいことだったのだ。
 わたしがプレイステーション2で主に遊んだのはフライトシミュレータだった。戦闘機を自由自在に飛ばすのは非常に訓練と理解が必要で、とても難しかった。しかし友人と毎日夢中でやるうちに、日はどんどん過ぎていった。
 ただ、ゲームに夢中でいられるのはせいぜい小学校までだ。中学へは、友達はほぼ同じ中学へ進学したがそれぞれに部活や塾で忙しくなって、ゲームなどやっている暇はなくなってしまった。わたし自身も同様で、テニスの練習や(部活)塾へいって勉強するのに忙しくなった。もちろん疎遠になったわけではない。別の面で充実していった。
 いつの間にかプレイステーションはホコリをかぶるようになった。こうやって、子どもたちはゲームから離れて行ったのだろう。
 ごく近年。1,2年前か、PSPのゲームアーカイブスというサービスの中で、ブレスオブファイアが配信されていることを知った。早速ダウンロードしてみると、懐かしさに感動した。
 
 わたしはギリギリ「アナログ」を心に留めている世代だ。だから、現在のゲームっ子たちを見ていると、すごく危うい感じがする。具体的に何かといわれると反論しづらいのだが、どうもいけない。
 最近のゲームのコマーシャルを見ていると、いい大人がスマホを握ってゲームするような場面がある。これは活を入れなければいけないだろう。喝か。
 ゲームをやってストレスを発散するような大人は三流だとわたしは思う。大人なら、小さな画面をずっと眺めているより、そんな時間があったら散歩をするべきだとわたしなら言う。
 空の青さや緑の美しさは、小さな画面の中などでは到底わからないことだ。何も絶景を見ろというのではない。日常の中の風景にも、美しさはいくらでも隠れている。それを見つけ出すのが散歩という楽しみ方だ。
 
 日常の仕事に追われて、疲れ果てる。しかし眠っているときに、わたしたちは夢を見る。それがどんな夢か、すでに覚えていないけれど、そうやって夢を見ることは子どもの時から変わらない。
 夢を見て、目が覚めて。そこから学校へ駆け出していった自分と、今の自分。それはどう違っているだろう。子どもの頃に見た「夢」は、いま形になっているだろうか?
 例えそうではないとしても、それはそれでいい。
 
 毎日、夢の少し後、わたしたちは一日を始めるのだ。明日も、その先も……。

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2014年4月15日 (火)

火星最接近

2014/04/14の21時53分。火星が地球に最接近しました。
距離は、0.6175582天文単位、キロメートルに直すと92385398kmです。
よくわかりませんね……。
まあ正確な数値は置いといて。
見かけ上、月とも接近したので、晴れた地域の方は美しく見られたと思います。

見られなかった?

そんな方はこの写真でどうぞ!
どん
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タブレットからなので、うまく行くかどうか。
こんな感じです。
とてもきれいでした。

ちなみに、満月は今日ですよ!
とってもきれいです。
ぜひ夜空を眺めてみてください。

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2014年4月14日 (月)

キーボード

 わたしはBluetoothキーボードを使用しているが、これはとてつもなく便利である。
 タブレット端末において、文字を打ち込むのにフリック入力という第一時的入力方法では、打ち込む速度に限界がある。これは仕方のないことで、物理的キーでないものを使っているのだから仕方がない。
 その点、物理的キー、しかも携帯電話(ガラケー)のようなキーとは違うフルキーボードを使えれば、打ち込み速度の凄まじい向上をはかることができるのは当然だ。
 メールを打つ場合、慣れた人物だったら、携帯電話のキーよりはキーボードを選ぶのではないだろうか。場所さえ許せばどこでだって物理的フルキーボードを使いたいというのが本心ではないだろうか。
 ……。しかし以上はあくまでもわたしの気持ちであって、実際としては他人に聞いたことは一回もないので、ただの推測に過ぎない。ただ、ネットでケータイメールについての文章の書き方を綴っている人を見たことはある。その人は、長文の場合はパソコンで打ち込んでそれをケータイへ送り、それを目的の人物へ送信(転送)するという本人曰く、
「ややこしい」
作業をしていたそうである。
 
 現代において、パソコン以外で文章を作製することはあるのだろうか。わたしはないと思う。メモを取ったり、簡単な文を書いたり、図を書いたりすることは手書きであるかもしれない。しかし、公的な文書が手書きで作られることはあるだろうか。
 公的な文書というのは役所が作る文書ばかりではない。どんな民間の会社が作っても、例えば契約書やそれの約款、その他諸々(何でもかんでも)文書は、充分に公的だろう。それを手書きで作るだろうか?
 ない。
 それはない。
 今はパソコンで文章を作れてなんぼの時代なのだ。
 もっとも、署名くらいは直筆でしたいものだし、していただきたい。余談ながら、日本にはハンコという不思議な文化もあるので、それはそれで取っておいたらいいだろう。
 わたしもこうやって考えてみてちょっと鳥肌が立ったが、わたしたちは本当に文を書かない時代に突入したのだ。
「文は打つ時代になった」
そう言えないだろうか。
 これは意識の転換である。いってみればそれだけである。わたしたちは文章を打つようになったが、書けなくなったわけじゃない。(ややこしいが物理的に文が書けるというのは少し違う。例えば手書きで漢字を忘れて思い出せないことがあれば、それは物理的に書けていないことになる)
 要約すると、文章を作成することはできるのだ。ただ手では書けないし、手で書いた文章、文書の価値が限りなく低くなっている。そういうことを言うのである。
 でも恐らくこんなことを気にするのはわたしくらいだろう。でもそれでいいのだ。わたし個人というたった一人の人間でも、現代の日本人が置かれている状況をなんとなく理解している。自己満足かもしれないが、それが大事なのだ。
 それにしてもキーボードで打つのは速い。手書きの何倍だろうか。凄まじい速度である。誰しもこうやって気軽に文を打てるようになったが、その分本当に価値のある文がとても少なくなった。それは残念極まりない。
 これからどんな科学的革命があるかわからにないが、それまではキーボードが我々の指先で活躍することだろう。

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2014年4月 8日 (火)

夕方

定番ですよね。

はい。

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もっと絞ればよかったです。

縮小すれば気づかれませんけどね(殴

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2014年4月 1日 (火)

旅立ちの季節に

 四月といえば、旅立ちの季節だろう。わたしにはそういうイメージのほうが強い。
 出会いと、別れ。
 わたしは別れが嫌いだ。しかし出会うことは好きだ。
 出会うことはいつか必ず別れることであるのに、人は出会いを喜ぶ。
 それは本能的なことで、特に考えていることでもないのかもしれない。
 いつか別れるのだと知っているから、人は他の生き物よりも一緒にいる時間を大切にできるのだ。(だと信じたい)
 でも、普段から一緒にいられることが素晴らしいことなのだと感じられている人は少ないだろう。
 やはりこれも、なくしてみて初めてわかることが多いのだ。
 今ある生活、ここまで築いてきた生活、これからの生活。出会いはこれらのすべてをいっぺんにひっくり返してしまうこともある。厄介といえば厄介だ。
 しかし全ては出会わないことには始まらない。
 人は何かすることよりも、何もしないでいることのほうが難しいのだ。
 わたしたちはこれからもこの流れ、出会って別れることをずっと続けていくだろう。それは決まっていることでもあるし、人とはそういうものなのだ。それに悲しみを感じるのも自由だし、楽しみを見出すのもその人次第だ。
 全てはものの見方。出会いも別れも紙一重でつながっている。手のひらと手の甲のようなものだ。
 出会ったからにはいつか別れる。別れたからまた出会いがある。
 そのきっかけが、四月なのだ……。

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