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2014年2月

2014年2月23日 (日)

落ち込んで……

 巨匠のあまりにも偉大なお言葉を聞いて意気消沈したので、散歩に行って気分転換しようと試みるものの、逆に疲れてこれを書いている。
 いや、わたしは二、三キロメートル歩いたくらいで疲れはしない。ただいろいろ考えながら歩いたり、犬のリードを持っていたり、強風だったりすれば疲れるものなのである。
 ちなみに我がシティは現在微風である。
 シティ、という言葉で思い出したが、わたしはシムシティというゲームが好きだ。
 シムシティとは?
 要するに、
 「都市を作る」
 ゲームである。自分が市長となって街を作っていくのだ。これは箱庭ゲームといってもいいだろう。好きな人にとってはいくらでも時間をつぎ込むことができるが、興味のない人にとってはまったく面白くないゲームでもある。
 なにしろゴールというものがない。クリアがない。ラスボスもいない。ずっと続くのだ。しかしそれだけに自由で、奥が深い。
 これはその人の性格が出る。大雑把な人がやれば(わたしのことだ)だいたい性格を反映した街ができるし、細かい人がものすごい時間をかけて作れば、それこそ芸術のような街ができるのである。 わたしもいろんな人の作例を見て真似しようと思ったが、到底無理だった。これは本当に緻密な作業だ。
 現実の都市設計も同じではないかと思う。効率的に人が済む区画を設定し、交通が滞らない道路を設置して市民の生活の向上を図る。仕事場を作って雇用を確立し、税収を得て更に街の発展費用に当てる。
 本当に市政そのものだ。
 しかしながら、わたしが本当に好きなゲームはフライトシミュレーターである。(たまにシュミレータという人がいるがそれは間違い)
 プレステが全盛期だったときは、友人と毎日のように「パイロットになろう」をやったし、プレステ2になってからは「エナジーエアフォースシリーズ」を友人とやり尽くした。
 エナジーエアフォース・エイムストライクだったら、わたしはどんな状況からでも着陸できる自信がある。ちなみに、コンピューターに合わせて編隊離陸をするのも得意である。この技術を獲得するにはみっちり一年くらいはかかるのではないかと思う。今でもできるはずだ。
 わたしは着陸が得意で、重要なミッションを終えて基地へ帰投する段階になると操縦をわたしへチェンジし、着陸をやるのがいつもの流れだった。主なミッションは友人が行い、わたしはそれに口出ししつつアドバイスをするのが定番のプレースタイル。思い出すと懐かしい……。 
 だがわたしも苦手なフライトシミュレーターがある。
 「エアロダンシングシリーズ」 である。
 これは本格派で、難しい。特に教官の採点が厳しすぎて、やるのが嫌になることたびたびだった。今考えてみればプログラムの判定に延々と悩み続けていたわけで、馬鹿らしいといえばそれまでだが、面白い経験になったのは間違いない。
 もう一つ苦手なのは、
 「マイクロソフトフライトシミュレーター」シリーズだ。
 これはガチ。もうマジでガチ。何しろ簡単な軽飛行機の訓練に使うところもあるくらいだから。
 大空を飛ぶのは太古の昔から人間の夢だった。わたしも空を飛びたかった。もろもろの事情でそれはできなかったが、今でも空への情熱は決して冷めてはいない。
 昔からわたしは暗算能力に欠けている割にはでかい数字が好きで、秒速七キロメートルとか、マッハ二.五とか、百五十メートルとか、四百ミリなどのでかい数字を聞くとワクワクせずにいられないのである。ちなみに秒速七キロは宇宙機の速度、マッハ二.五はF-15戦闘機の最大速度、百五十メートルは釣り竿のこと、四百ミリはカメラのレンズのことである。
 小学生だった頃、父に連れられてハゼ釣りの大会に出た。その時、なんと賞をもらえたのである。「飛び賞」という数で、要するにテキトーな数の順位の人へ粗品をあげよう、という賞へ引っかかったのだ。その時の順位は三十三位で、リールをもらった。百五十メートルの釣り竿に憧れたのはこの時だ。
 小学生のわたしにそんな遠投ができるわけがない。しかしわたしはあまりに数字にこだわったので、父に少し叱られてしまい、チョイ投げ竿を買うにとどまった。ちなみに、このリールも竿も現役で働いている。結果的にチョイ投げ竿を買ったのは大正解だった。この選択が現在までの使用を可能にしているといえるだろう。
 釣りをするのも気分転換にはもってこいかもしれない。初期投資をして、あとはちゃんと手入れをすれば釣具というのは十年単位で動くものが多いので、なかなかに効率のいい趣味かもしれない。実際魚が釣れれば食料になるし、釣りの感覚というものはどんなにゲームが進化しても再現することは不可能だろう。
 原始的なことではあるが、歩くとか釣りをするとか、そうすることは気分を変えるのにいい。自然と向き合うというのは何よりも優れた薬である。
 今、外を見てみると日が暮れようとしている。今日の夕日はどんな景色だろう……。
 (夕日は毎日同じように見えるかもしれないが、位置も見え方も、同じ日は一日としてないのだ。そう考えると、夕日の美しさがより感じられるのではないか?)

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2014年2月22日 (土)

知り合いから

 知り合いから、

 「エッセイを読ませてほしい」
 

 アピールがすごいので、これを書く。

 エッセイを書くことがすごいのかといわれると、まったくすごくないことだとわたしは考えている。思ったことを書くのがエッセイだし、それこそ読む価値があるかどうかはまったく読む人次第だ。
 

 わたし自身は割と広範囲にわたってエッセイの題材を求めているし、実際に書いている。
 

 その日に起こった出来事を書くこともあるし、その出来事から連想したことの感想やこうあるべきだという考えなどを書き綴っている。
 

 各文章の内容は、理想を語っていることが多い。そして、大体「日本はこうあるべきだ」と理想の姿を提起している。
 

 エッセイのいくつかを読み返しても、「日本」という言葉の入っていないエッセイのほうが少ない。国に対して少し批判的なことを書いたとしても、わたしは国に絶望しているわけではない。一般的に、批判される場合というものは改善の余地があるからであり、批判すらなくなった時が真に危機なのである。わたしはまだ充分に改善の余地がある批判を書くことがほとんどだ。逆に解決の余地がない問題については、わたしの知識を超えており恐らく書くことができないであろう。
 

 こうやってエッセイを書くことで、気持ちの整理をすると同時に自分が心の中では本当にどう思っているのか、ということも見えてくることがある。
 

 「一文字でも書いてみること」と「書こうかと考えている」状態ではまったく違う。雲泥の差である。
 

 物事を進めようとするとき、一番いけないことは「ただ悩む」ことである。これは時間をただ浪費するだけで生産的でない。悩む時間というものも必要だが、実行しようかどうか悩むというのはダメだ。
 

 ただ、悩む時間というのはエッセイにとって大変重要だとわたしは考えている。実体験からそう思う。

 「なぜこうもうまく行かないのか」

 「どうしてこうなるのだ」
 

 そう考えることによって自分の中にエッセイを書くタネがたまっていき、いざ書くときになるとそれらが火山の噴火のように吹き出してゆく。そうして書かれた文章は惰性的でなく、ナマの感情で描かれたより良い環境を求める健全な主張となる。
 

 もしここで悲観的な文章を書いてしまう人がいるとすれば、書くことにそれは向いていないのかもしれない。わたしは文章を書くときは必ずポジティブになっていく。書くとネガティブになってしまうという人は、強いて文章を書くこともないだろう。それに、単に書くことに向いていないのではなく、その時の気持ちがたまたま書くのに向かない状況だったのかもしれない。とにかくわたしの場合はポジティブになる。そういう話である。
 

 書く場合の題材は、わたしの場合は瞬間的に思いつくことがほとんどだが、その「思いつく」タネは一日のどこかから生まれてくる。ちょっとした怒りや喜びをふくらませて、それに少しだけ自分の思想や理想を織り込む。そうして出来上がるのがわたしのエッセイだ。
 

 原稿を書く場合に大事になってくるのは、文字数である。大学などのレポートでは二千字とかそういう指定が多いようだが、エッセイや小説などの賞の場合、指定は大体原稿用紙換算である。
 

 以前パソコンで書き始めた頃、ものすごく書いたのに文字数が思ったよりも少なくてがっかりすることがよくあった。しかしこれは単純に文字数を計算していたからであって、原稿用紙に換算していれば結構な文字数を書いていたのだ。
 

 ワードなどは純粋に文字数を計算するため、思ったよりも書いていないように感じられてしまうのである。これは紙の用紙から入ったわたしにとっては嫌なことだった。正確に書いた量が把握できないので、書くモチベーションがめちゃくちゃ下がる。
 

 量をたくさん書くというのは案外大変に思えてくるかもしれないが、ある程度の量を超えてくると「ランナーズハイ」のようになって、むしろどこで終わりにしようかと悩んでしまうくらいである。書こうと思えば永遠に書けるのかもしれないが、わたしの最も長かった執筆時間は半日で、日をまたいだことがない。それがネックといえばそうかもしれない。
 

 わたしは仕事を残したままその日を終えるのが非常に苦手で、どうしてもやりきってしまうまでは無理をしてでもやらないと気がすまない。作家のように何ヶ月もかけて小説を書くというのは本当に大変な作業だと思う。
 

 チキンな人間なので、パソコンで書いていると

「データが消えたらどうしよう」
 

 ということが常に頭の中にある。パソコン特有の悩みだが、便利さゆえにどうしようもない。
 

 エッセイを一本書き終えると、必ず紙にプリントアウトする。それに万年筆でサインをしたら、そのエッセイは完成だ。
 

 だが、誤字脱字というのはプリントアウトするとなぜか発見しやすい。その目的でプリントすることもあるし、バックアップという面でも威力を発揮する。
 

 結局たどり着くのは、

「紙最強」
 

 の三文字である。これなくしてわたしたちの文明は存在し得ない。どんなにデジタル化が進んでも、紙が消えることはない。
 

 しかし悲しいことにプリントするにはプリンターという機械を使わねばならず、それなしではディスプレイの文字もただの二進法の表現に過ぎないのだから悲しいものだ。電子書籍の発展によって、紙の書籍の重要性もこれから増すだろうと思う。特に紙で書いたものは太陽光や湿気で劣化するので、それらを避けて長時間保存する技術、ないし劣化しない紙を作っておくことが、公文書などの保存では求められるかもしれない。
 

 取り留めもなく書いたが、適当に一時間も書いているとこんなものである。参考までに。エッセイの一つの形が、これだ。
 

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2014年2月21日 (金)

意識の切り替え

 Lutwig van Beethoven
 

 これをあなたはなんと読むだろうか。恐らく一般的な日本人なら 
 

 ルートヴィヒ ヴァン ベートーベン
 

 と読むのではないだろうか。
 

 しかし、本場ドイツでは(要するに現地の正しい発音では)
 

 ルートヴィヒ ファン ベートホーフェン 
 

 というのだそうだ。もちろんカタカナで表現することに限界はあるがそれが最も近いようである。
 

 日本では、名前に関する教育の取り決めが実に曖昧である。これは子どもたちのためにならない。むしろ悪い影響しか与えない。
 

 海外へ留学すると、当然現地の言葉で会話をすることになる。そんな時に、「ベートーベン」とのんきに日本発音していては通じないのである。正しい教育を受けてきた結果がこれだ。
 

 日本は漢字とひらがなとカタカナを使い分けるという非常に特殊な環境のために、この悪い習慣ができてしまったのだと思う。
 

 わたしが中学生の頃、クラスの男子という男子はみんな三国志を読んでいた。劉備、曹操。その他たくさんのキャラクターたちの活躍に胸が熱くなったものである。しかし、では三国志の舞台である中国へ行って「りゅうびってすごいですね。ぼく尊敬してます」といっても通じないのである。英語が喋れる中国人と会話をしたってそうだ。「ぼくはしょかつりょうが好きだなあ」といっても理解してもらえない。
 

 わたし自身おかしいと思ったのだが、例として中学の教科書で朝鮮の三つの国を習うとき、現地の言葉で習った。つまり高句麗はコグリョ、百済はペクチェ、新羅はシルラだった。これが義務教育では定められていたようだ。しかし高校へ入って世界史の教科書をもらうと、この三国を含め、見事なまでに日本発音になっていた。
 

 中学と高校で教育方法が一貫していないというのはいががなものだろうか。いいはずがない。
 

 それに比べて海外へ目を向けると、見事に正しい発音をしている。多少は訛りがあったとしてもオザワセージとかイトーヒロブミとか正しくいうので我々日本人にもちゃんと伝わる。建設的なディスカッションをする上で、名詞が正しく伝わるのは最低限の条件だ。
 

 特に漢字発祥の国中国でも、日本名をちゃんと読んでいる。日本の漢字を中国読みしていない。韓国でも同様である。このたった一つの意識の切り替えで、世界に通用する人物の土台ができるかどうかが決まってくるのだ。たった一つである。それさえ変えれば、日本人の基礎的競争力は飛躍的に上昇すると思う。
 

 この意識改革をするなら、世代を超えた時間が必要となるだろう。しかし、それだけの時間をかけてでもいいからやっておくべきである。
 

 最近、新聞でもやっと本国の呼び名が併記されることが多くなってきた。教育に携わっているわけではないので分からないが、名前の呼び方も改善されているものだと考えたい。
 

 何年か前に買ったドイツ語のテキストのコラムに、これと同じようなことが書かれていた。その筆者によれば

「まるで自分の受けてきた教育が間違っていたのではないかと思ってしまった」
 

 と書かれていた。留学している日本人は、自分が受けた教育によって足を引っ張られてしまうことがあるように見受けられる。これでは何のための教育か。再考している時間はない。日本の教育も、世界的スタンダードに立つべきである。
 

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2014年2月20日 (木)

見る力

 人がいかにものを見ていないか。絵を描いているとそれを痛感させられる。
 

 見ている?
 

 なら実験してみよう。

 ポンキッキーズで有名なキャラクター、
 

 ガチャピン
 

 を思い描いてほしい。あの緑のフォルムを……。
 

 では、紙と鉛筆でもいいしペンでもいいので描くものを用意してもらいたい。
 

 用意できただろうか。
 

 ではガチャピンを描いてみてくれ。
 

 わたしの経験則ではこのうろおぼ絵をやると、凄まじい怪物が誕生する割合が結構高い。この結果が何を物語っているのかといえば、それはひとえに
 

 人はいかにものを見ていないか。
 

 ということだ。
 

 つまり人は目で見ているのではなく、ほとんどものが目に写っているだけなのだ。
 

 絵を描くようになると、この対象物をしっかり見る能力が確実に必要になってくる。そしてこの力が優れているほど絵の上達は早い。
 

 絵の上達の段階の一つとして、「ものを正しく観察することができるようになる」ことが必要だ。先入観を捨て、ありのままを見る。これが難しい。
 

 そして段階が進み、物事の構造を考えるようになる。
 

 例えば農村の風景が描いた絵があるとして、その絵の農機具に何か説得力がないような気がするとする。それはどうして説得力がないのか。
 

 原因はいくつかあるかもしれないが、一番多いのは農機具の構造を理解していないことが原因だろう。すきやくわのようなごく単純なものだったらよいかもしれないが、耕うん機や農業作業車の構造を理解していないと、風景に溶け込ませることはできても、絵全体の説得力が欠けてくる。
 

 この道具の曲線はなんのためにあるのか、この車の配管はなんで曲がっているのか。それらを理解して描いてこそ絵は写実的な説得力を持ってくるのである。そしてその説得力を下支えするのが「ものを見る力」だ。
 

 この物の構造を理解する行程を超えると、その物体の自由な構図が可能になる。つまり自分の思った風景を描けるようになるのだ。
 

 雲の構造を理解すれば、あらゆる風景の雲が説得力を持ってくるだろう。飛行機の構造を理解すれば、より空を飛んでいるように見える飛行機が描ける。複合的に雲と飛行機を組み合わせることができるようになれば、雲海の上を飛ぶ飛行機を描けるようになるし、絵というものは単体が存在するよりも複数のモチーフが影響しあっている方が説得力が出しやすいため、よりいい絵が描けるようになる。
 

 写実的に目の前のものをいかに紙面に再現するかというのは画家の才能の見せ所だが、それだけではなく実際には見たことのない景色や存在し得ないものを描くことも絵の醍醐味である。紙の上において、絵を描く人は完全に自由なのである。
 

 しかし自由であるがゆえにその責任はすべて描いた者の腕にかかってくる。自由に想像して描いた絵は時として意味曖昧なものになりかねないが、それを防ぐためには現実を正確に理解している必要がある。
 

 空想を描くというのは基本的には非常に豊かな想像力と知識が必要で、いってみればその人の人生経験が現れてしまうものでもある。絵に向き合ってきた姿勢、線を引く丁寧さ。それが結果に直結するからである。
 

 けれども、難しいし面倒な思考の過程を経るかもしれないけれど、それを上回って空想を描くことというのは楽しいのである。これほど楽しいことはない。が、空想の世界で絵を成立させるには、その世界をいわば創ってしまわねばならない。その絵の中の風の向きや天気、光源の位置を頭の中に完璧に創っておかなければ、絵は破綻する。難しいのである。
 

 これだけ描いたが、絵の基本は楽しむことだ。描いて描いて描きまくる。描いた数だけ上達するから、絵というのは面白い。
 

 こうしてつちかった力を、他の場所でも活かせられれば絵描きとして人として、より豊かな人生を送れるだろう。

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2014年2月18日 (火)

小鳥がたくさん

何故か今日の庭は盛況でした。

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メジロとウグイスです。茶色いほうがウグイス。

Photo

なぜかツーショット。珍しいです。

Dsc_01772_2

ウグイスの飛ぶ瞬間。もっとシャッタースピードを上げていれば……。

Photo_2

そしてまさかのコゲラ。コンコンて。

2

飛びます飛びます!

Photo_3

セキレイ

 シジュウカラでした。

いやーほんとにたくさん鳥がきましたねぇ。

コゲラなんてわたしは初めて見ました。すばらしい。

ウグイスとメジロのツーショットなんて感激しました。

小鳥はかわいいですね。でも被写体としては難しいです。またチャンスがあるといいのですが。

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2014年2月17日 (月)

長い時間

 ここ三日くらい手書きで文章を書いていたので、アップできなかった。手書きは書いていて充実感があるが、致命的な欠点としてブログにアップしづらい。
 

 アップロードすることに抵抗があるわけではないのだが、スキャナーでいちいちスキャンするのも面倒だしそれに今までの傾向からして手書きの原稿は人気がない。ひとえにわたしの字が読みづらいのだと思う。
 

 今日は曇天だ。そろそろ花粉が飛び出すのではないだろうか。わたしのふるさとは花粉の街といっても過言ではない。北の方にスギの名産地がありここから毎年膨大な量の花粉が飛んでくるのだ。
 

 北部に住んでいる知り合いは重度の花粉症で、この時期になると「帰省したくない」といっているほどだ。「車で実家に近づくほど花粉症がひどくなるのがわかる」ともいっていた。
 

 わたし自身も花粉症なのだが、重い症状がない。軽症で済んでいる。わずかに目がかゆくなる程度だ。
 

 今でこそ花粉症という病名がわかっているが、昭和の頃はアレルギー性鼻炎といわれていたそうである。原因がわかっていなかったようだ。
 

 杉の品種改良で花粉を飛ばさないものも作られているようだが、それが定着するには何十年とかかり、恐らく今生きている人々が花粉症のない世界を体験することはないだろう。
 

 なぜ花粉症が昭和になって顕著に現れるようになったのか。それは大気汚染が原因の一つだとも聞いたことがる。花粉自体にはそれほど害がないのだが、汚染物質と一緒に体内に入ることで悪さをする、と言っていたような気がする(うろ覚え)

 

 大気が汚れていていいことがあるはずがない。
 

 以前自転車について調べていた。昭和の頃の自転車は二十年は乗れたといわれたので、なぜ現在の自転車はそれほど長持ちしないといわれてしまうのか、疑問に思ったのである。

 

 主だった説は二つ見つかった。
 

 一つは、

 大気汚染によって部品の劣化が早くなったから

 というもの。

 もう一つは、

 自転車の製造が海外へ移転し、最高の材質を最高の品質で作ることがなくなってしまったから

 というものだ。
 

 あくまでもわたしが調べた範囲のことなのでこれも鵜呑みにしないでいただきたいが、どちらもいわれてみれば思い当たる節がないでもない。

 とても廉価な自転車が時々売っている。しかしあまりにも安いものは買わないほうがいいと思う。こういう品はタイヤのゴムが層になっていなかったり、部品の所々が品質が悪かったりして結果的に非常に状態の悪い製品となっている。購入してからしっかり整備して使っていても、元々が粗悪な品なのですぐ壊れる。使い捨てをする時代は終わりかけている。こういう品は買わない方がいい。

 使い捨てをするかどうかは要するに消費者次第なのだが、長持ちする製品を買うことによって自分に効率の良い投資をするだけでなく、販売業界全体にとって高品質な製品を望むことになるはずだからWin-Winではないだろうか。

 

 ものを大切に使うことは意識として大事なことである。長く使ったものには愛着がわくし、それはとても良いことだ。いい道具は仕事のモチベーションを上げてくれ、なおかついい成績を出してくれることが多い。少し意識を変えるだけでまったく違う世界が待っているかもしれない。

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2014年2月14日 (金)

犬論

 犬というのはけなげな生き物だ。朝飼い主が出かけると、夕方帰ってくるのをずっと待っている。
 

 犬の耳はいい(よく聞こえる)と言うのはこんな場合も同じで、飼い主の車の車種を犬は理解している。主の車が車庫に入ってきたら、確実にそれが飼い主だと理解できる。もし誰か知らない人の車だったら、吠えるだろう。
 

 我が家の犬の場合、帰ってくるのを感知するとソファの定位置に場所を取る。そして震えながら飼い主の玄関への到着を待っている。いよいよ到着しようものなら興奮はMAXで、嬉しさが爆発する。
 

 犬にとって、飼い主のいない時間というものはとても長く感じられるのだと思う。犬はもともと群れで暮らす動物であるから、仲間とはぐれるというのは精神的に大きな負担となっているはずだ。それだけに「群れの一員」である家族が帰って来れば、嬉しさは想像できないほどのものなのだろう。
 

 帰ってくる時刻というものはいくら言葉で伝えても彼らにはわからない。だから出かけるならなるべくそっと、いつの間にかいなくなっている方が良い場合もある。逆にしっかり出かけるところを見送ることで気持ちが切り替わる犬もいるので、そこは適宜調整すべきだ。
 

 犬を飼うとしたら、一日のどれくらいの時間を一緒に過ごしてやれるかが大事な条件だ。犬種によっては孤独をとても怖がる種類もいるし、犬種に限らず群れでいるはずの生態をわざわざ壊すというものは動物愛護の観点から見てもよろしくない。
 

 飼い主と一緒に過ごす時間というのは犬にとって精神安定剤のようなもので、一緒にいられる時間が長く、適度な運動と正しい食事を取ることのできている犬ほど健康で幸せな一生を過ごすことができる。そして癒やしの存在になってくれるだろう。

 一緒にいられない時間というものはたしかにストレスだが、ずっと構われっぱなしというのもあまり良くない。一人になる時間も必要で、なおかつ人間との生活上必ず一人になる時間は存在するため、留守番のときや一人た時異常な不安を感じるようではしつけが不十分だといえるだろう。分離不安は血統によるところも大きいが、幼少期からの正しいしつけによって回避できる要素の多いものである。
 

 子犬時代というものは犬にとって大変重要なもので、一生を左右する大切な時期である。社会化や人格の形成を行うため、一歳になるまでは非常に注意深くかつ愛情を注いでやる必要がある。三ヶ月齢くらいの時期の思い出(楽しかったこと怒られたこと)は成犬になっても覚えているそうだ。
 

 愛情を注がれた純血統犬というのは、最高に飼い主を信頼する。行動にも落ち着きがあり、いうことをよく聞く。そのため、盲導犬の候補犬は、パピーから一歳になるまで人間の家族のもとで幸せに暮らすことを義務付けられている。特に盲導犬は厳しい基準を満たすためにより安定した環境で幼少期を過ごす必要があり、そうすることによって性格的に優れた候補犬を育てることができる。
 

 犬の世界ではどのような血統であるかということがすごく重要だ。親や祖父母が優秀な成績、ないし性格を保持していれば子もほぼ必ずその先例にならうことができる。逆に言ってしまえば、遺伝病を持っている場合ほぼ確実にそれは受け継がれることを意味している。犬は世代の移り変わりがはるかに人間より早いため、病気を発症した血統を除外すれば数年のうちにその病気は根絶することができる。人気が出た犬がやたらと乱繁殖され、不幸にも疾患を持った犬が生まれてしまうのはまったく人間の責任である。
 

 このように書くと、犬も生命なのだから自然であるべきだという意見もあるだろうと思う。しかし、現状人間は何世代にもわたって犬を交配し、自分たちの好むように望むように作り変えてきた。それに犬は人間とともにいることによって生存する生き物である。つまり犬の生態は人間が責任を持って管理する必要がある。
 

 無責任な人間が不幸な犬を生み出してしまうのも事実だ。
 

 犬を飼うなら、大きな責任感を持って育てなければならないことを、ここに書いておく。
 

 しかしそんな難しく考えることはなく、愛情を注げばそれだけ応えてくれるのが犬という生き物だ。犬がどれだけ自分を信用しているのかということは、自分がどれだけ犬へ愛情を注いであげられたかという写し鏡のようなものだといっていい。
 犬は人間の良き伴侶である。もし犬をこれから迎えることがあったら、決してテレビなどの「安い」情報ばかりに囚われることなく、一つの命を預かるのだということを銘じてほしい。

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2014年2月13日 (木)

テキトー心理

 わたしは一時期サボテンに凝ったことがあり、今もその余韻がのこっている。

 「サボテンは水をやらなくてもよい」

 「ちょっとズボラな人でも大丈夫」

 と言った文句を見る時があるが、それは恐らく販促用の文句であろう。

 わたしの経験では、そうやって買うとまず枯れる。なぜならわたしがそうだったからである。
 

 一ヶ月に一度の水やり。
 そう考えていると、ほぼ間違いなく枯れる。
 

 人間とは案外テキトーな生き物だ。わたしの場合、ズボラでいいといわれたサボテンを育ててみたら見事に枯らしてしまったが、二、三日に一度世話をしなければいけないベタはもう飼って4年くらいになるのではないだろうか。(現在二代目)
 

 考えられる理由として、ベタの場合は結果がすぐに出るということがあると思う。世話をしなければ水槽は汚れるし、魚も元気がなくなってくる。その反面、ちゃんと世話をすればなんとも美しいヒレを広げ悠々と水槽の中を泳いでくれる。熱帯魚が泳いでいる姿というのは癒やされるものである。 サボテンを眺めるのも幸せなのかもしれないが、わたしの場合はあまり長期的な計画を実行するのが苦手ということもあって、植物(サボテン)の成長をゆっくり見守ることができなかったのかもしれない。老成してくると、土いじりが好きになる人は多い。わたしもそうなるのだろうか。そうしたらそのときもう一度サボテンと向き合ってもいいかもしれない。
 

 植物も、一年草もあれば千年とたつ神木もあるし本当に奥の深い世界だ。魚も奥深さでは劣らないが、大概魚の寿命は人間よりも短い。特に観賞用の熱帯魚で何十年と生きるものは少ない。何世代にも渡って育てられる木と違って、魚は年単位でめまぐるしく変わる。
 

 生物全般的にそうだが、小さいものほど寿命は短い。現に大きく育つことのできる魚は、小型の魚より長命である。
 

 ベタの寿命は二年というところだろうか。実は今いるベタは家に来て二年経つ。ショップへ出荷される時点ではだいたい生後半年なのだそうである。彼の生命はもう二年半たっていることになる。悲しいことに魚の寿命は計算できてしまうのだ。人の寿命を計算しようものなら非難轟々だと思うが……。
 

 こう書いてきたが、実は我が家のサボテンは全滅したわけではない。甲斐甲斐しい努力によって、何株かは今も健在である。健在どころか、「子吹き」と呼ばれる独自の繁殖によって増えすぎている。
 

 サボテンの子吹きは進行すると見た目がかなりグロテスクで、写真の撮り様によっては「風の谷のナウシカ」の腐海の植物と言っても過言ではない。前にその写真を載せたことがあるかもしれない。
 

 増えるという点ではまったく世話がいらない。問題は増えた命をどうするかだ。
 

 だが不思議なことに、植物が増えて枯れてしまってもわたしの場合は極端に残酷だとは思えない。わたしだけではないと思う。それは自然の成り行きという気がするからだろうか。しかし魚が増えすぎてしまって、例えば川に放したとか聞くと生命を奪ってもいないのにものすごく悪いことをしているように思える。魚は生物として生きているから大事にしなければいけないのだろうか。その辺りの意識のあり方というものは、不思議というか勝手というか、人間の心理は本当にテキトーである。

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2014年2月11日 (火)

手書きは不利?

手書き原稿は不利なのか?わたしは疑問に思っている。手で書くことは、書いた内容を理解しておくのに有効だ。ここ何日かワープロ原稿を書いているわけだが、読み直してみて、「こんな文書いたっけ?」という疑問が生まれる頻度が手書きよりも多いと感じる。

 大学にいけば、ワープロ原稿を書くことも多くなってくるだろう。そんなとき、手書き原稿は認めてもらえない。以前Webサイトで読んだことがある。その人は、アメリカに留学していたことがあったのだそうで、それはたぶん90年代の話ではないかと思う。その当時から、大学では手書きのレポートは認められなかったという。みなパソコンを使っていたが、アフリカ出身の学生が、ひとりタイプライターを使っていたのが懐かしいと書かれていた。

 英語圏では、すでに手書きの原稿は認められないのではないか。要は、日本人が手書きがいい、とか、そんなものは受け付けないとか、受け付けないのはおかしいとか、議論しているレベルが低すぎるのではないだろうか。

 文字の文化として手書きを大事にするものだ、という考え方は日本において大きな比重を占めているだろう。それがよくない方向に勝手に育っている。それが日本人の書くという行為への考え方を狭めている。

 世界的に見れば、ワープロ原稿だろうが、手書きであろうが、要は優れていればいいのだが、時代の流れを見てみると、それがワープロ原稿であった方が扱いやすいし、望ましい。そんな感じではないだろうか。

 ノートをとる。それをノートパソコンでやったらどう思うだろうか。「ノート パソコン」名前の通り、使ってみたらどうだろう。でもそんなことをするのはごく少数の物好きな連中だけだろう。けれど、これからの時代、もしかするとそれが当たり前になってくるかもしれない。大学生ぐらいになってしまえば、どんな風に文章を書き残すかなど本人のまったくの自由だといっていい。それをどっちみち印刷してまとめなければいけないのなら、ワープロ原稿のほうが優れているに決まっている。こういうとき、考え間違いをするとんちんかんがいるものだが、すべてをワープロにすればいいというものではない。極端な話、漢字の書き取りをワープロでやる?それはタイピングの練習にしかならないだろう。

 わたしが中学生の時、ひとりじいさん先生がいた。かれは、期末テストの問題を手書きでかいていた。パソコンは扱えなかったのだろう。彼のテストは不評だった。問題が想定外で、今考えてこそなかなかとがっていて面白いのだが、得点を第一に重要視しているエリートさんたちには困る問題以外の何者でもない。この先生は、わたしが中学二年生を終える年に、定年退職を迎えた。恐らく、手書きで期末テストを書いていた最後の世代であったのだろう。その人が退職して、今年で○年になる。もう、どんな先生も、パソコンで試験問題を作っているだろう。逆に言えば、手書きでテストが作れるような猛者は残っていないだろうと思う。別に手書きのテストだからありがたいなんてことはなにもないのだが、少し寂しさのようなものを感じたのだ……。

 デジタルネイティブ。その世代が日に日に増えてくる。これから、手書き原稿というものは、単なる骨董的価値しか持たなくなってくるかもしれない。それでも、社会全体がより高いレベルで議論なり思考なりを行ってくれればわたしはなにも文句はない。ただ、手で書くことができるという能力は捨ててはいけないと思う。ワープロできれいな書類を作ることができる。それは大事なことだ。しかし、手書きで手紙を書いたり、お礼の気持ちをのべたりすることができないようでは、人間として半人前であろう。

 お礼状を書くとして、それは手書きであった方がいい。それかせめて署名は手書きで行っておくべきだろう。手書きで書いた文章は、試行錯誤のあとがみてわかる。気持ちを込めているんだということが、生に伝わってくる。その感覚を忘れてはいけない。

 ワープロは万能か。否。現代はまだそこまでいっていない。発展途上だ。これからの動きがどうなるのか、わたしは注視する。

 以前だが、気になることを聞いた。マサチューセッツ工科大学では、会議の時にプロジェクターもパソコンも使わないのだという。大きな紙に、それぞれの発言やそのときに出たアイデアを書いていくのだ。これがもっとも早く、彼らに言わせれば「残念ながら、PCなど、どの点をみてもまだ実用にはほど遠い」なのだそうだ。

 世界の先端をいっているマサチューセッツ工科大学の研究者がそういっている。だとしたら、プレゼンテーションをいかにきれいに行うか、ということを除けば、議事録を延々とパソコンに打ちこむ仕事などごみだといいきれるだろう。

それはごみか。確かに世界の先端をいく議論にとってはごみかもしれないが、社会は効率によってのみ成り立つのではないから、この「ごみ」も必要なことなのだと思う。少なくともわたしはこのごみを許容してやる寛容さは持ち合わせているつもりだ。自分がごみ作業をするとなれば話は変わってくるのだが。

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2014年2月10日 (月)

文の書き方

 ブログで文章を書くというのは、普通の文章とはちょっと違う意識を持たねばならない。文章そのものがまず
「他人に見られること」
を前提としており、誰かの批判をしようものなら炎上し、一般人さえも攻撃の対象となりうる。
 

 原稿用紙に文章を書くことを嫌がっている人たちも、ブログやツイッター、フェイスブックなどに続々と文を載せる。これはちょっと前の時代から見れば奇怪なことに違いない。
 

 上手に文を書きたいという人は多いだろう。上手な文というのは見る人(読む人)によって異なってくると思うが、共通するコツはあると思う。
 

 まず、他人それも見ず知らずの人が見ることを意識することだ。ブログはこれが前提条件だから、ブログで文章を始めるのはある意味面白いスタート地点だといえるだろう。高いモラルというか、書く姿勢の良し悪しで評判に直結してくるし、最悪炎上だ。いい練習台ではあるかもしれない。
 

 自己満足の文章を書いてもいいが、それはまったく自分のためだけであって、社会的に価値がない文章だったら誰も読んでいかないだろう。これだけ忙しい時代に、わざわざテキストを延々と読んでゆく人は少数派だと思われる。
 

 上手な文を書くコツの2つめは、毎日少量でもいいので書き続けることだと思う。それでも、せめて段落が2つくらいあるものにした方がいい気がする。ツイッターのようにごくごく短い文章を書き連ねても意味がないではないが、それは文章力の向上にはつながらないだろう。
 

 文章とはある程度の長さを持って初めて読む価値、読むという行為に値するようになる。ツイッターは読むというより「見る」といったほうが適切なのではないだろうか。なのであまり短い文章を書いても練習にならない。
 

 第3の条件として、たくさんの刺激を受けることだと思う。現代人は毎日を単調に過ごしがちだがそんなルーチンに囚われることなく、わざと習慣を崩してみること。ちょっと勇気がいるが、やる価値は十分にある(文章を書きたいのなら)このように日常の中に何かしらの違いというか、変化を上手に見つけるようになるコツは、絵を書くことだとわたしは思う。意外かもしれない。しかし、身近にある物一つをとってみても人は意外と物を見ていないものなのである。試しに修正テープの器具をスケッチしてみてほしい。すごく複雑かつ有機的に部品が配置されていることがわかる。
 

 こんな風に、日常の中に存在することの「面白さ」を見つけることができるようになれば、文章の面白さは飛躍的にアップすること間違いないと思う。
 

 ないより大事なのは、「書きたい」という強い意志を持つこと。反対に一番いけないのはあれこれ考えすぎて何もやらないことである。
 

 できればわたしは一度原稿用紙に書くことを経験してみてほしいと思う。原稿用紙1枚を書き終えたというのは、非常に達成感のあることだからだ。キーボードで400文字打ってみても、そこまでの達成感は得られない。今はワープロ原稿じゃないと受け入れられない時代ではあるが、手書きで書いてみる達成感を味わうのも文を書くモチベーションの維持につながるだろう。
 

 こう書いてみて、わたしの意見を載せたものの、果たしてこれが面白いのか役に立つのか。それはまったく読む人次第に違いない……。

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