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2013年6月

2013年6月28日 (金)

浜名湖ガーデンパークへ

行ってまいりました。

写真をどうぞ!

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スイレンですね。

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アジサイです。

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イギリスをテーマにした庭園です。

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こちらはタイがテーマ。

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象牙をかたどったものでしょうか。

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こんな彫り物がしてあります。

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こちら、インドネシアの庭園にある像。対になっていました。(もう一体いる)

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中国がテーマの庭園。なんて意味なんでしょうね?

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こちらは韓国の庭園の門。きれいです。

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ここは申し訳ないのですが、どこの国だったか失念してしまいました。

写真をよく見たら、ネパールって書いてありますね。

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そして、マスコットキャラクターのひとり、「のたね」何人かこんなキャラがいます。

休日のリラックスに、行ってみてはいかがですか?

毎月見頃の花なども変わってきますし、パンフレットもしっかり作られています。

行って見る価値は、大いにありです。

ガーデンパークの記事ながら、花の写真が少ないと思われるかもしれませんね。

でも、「ガーデン」なので、決して花だけが鑑賞の対象ではありませんよ。

駐車場も無料ですし、ぜひ。

今回の記事では、かなりざっくりお伝えしました。ほかにもいくつかの国をテーマにした庭園もあり、そちらは行って、見てみてください。

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2013年6月18日 (火)

アゲハチョウ

まるでハートのようです。

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まさに、愛、ですね。

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2013年6月16日 (日)

まじる

「あの若造め」

「このくそじじいが」

 よくある対立だと思う。若者にとっては、年上の者の固まりきった(ように見える)考えというのは、非常にめんどくさくて、うさんくさいものだ。年長者にとっては、若者のような血の気に走った考えは、いかにも危なっかしく見えるものなのだろう。

 若者は若者らしく、血の気に走っていろいろなことに考えを及ぼすのは大事だと思うのだ。若くて、感受性が豊かなうちに、いろいろな考え方を体験してみるのはとても重要なことだ。のちの考えの基礎となるものを、「若者」のうちに身に着けておくべきなのである。

 では、じいさんはどうしたらいいのか。

 若者の中に混じるべきである。

 ジジイ同士で話すのもいいことだ。決して悪いことじゃない。けれど、どうしても話の内容に新鮮さが欠けてくるに違いない。年を取ることは、自我というものがより強固になってくるという面を強く帯びている。当たり前のことで、いろいろなことを経験していくのだから、その経験に応じて自分の反応する方向性というものはある程度固まってくる。

 そんな時に、ぜひ若い連中と話し合ってほしいのである。彼らは、経験も浅いし、役職も持っていない。年寄りから見れば、取るに足らないあぶなかっしい存在かもしれない。けれど、そんな不安定で、どんな方向にも転ぶことのできる可能性を持った存在。それに触れることができれば、「ジジイ」の固まった思考も、ほぐれてくるというものであろう。

 若者に年取ったもののことを体感してみろ、というのはあまり意味がない。どちらにしろ、彼らだっていつかは年寄りになるのだし、むしろ、年を取った連中にこそ、若いころを思い出せと言いたい。誰だって、最初は若かったのだ。若いときのことを思い出してほしい。金も地位もなかったけれど、ハングリー精神だけは誰よりもあった。そんな時代が、多かれ少なかれ、誰にだってあるものじゃないだろうか。別に社長になって社会を変えるとか、そんなくそでっかい考えじゃなくてもいい。、なにか、燃えるものがあったんじゃないか。会社に入るからには、たくさん稼ぐぞとか、モテたいぞとか、そんな野望があったんじゃなかろうか。それがだんだん現実を知って、社会というものに悪い意味でこなれてくると、忘れていってしまう。いつしか考えが固まってきて、いつの間にか「若造め」なんて考える年になっている。

 どんな時代でも、解決されることはない問題だろう。若者と年長者。この構図は変わるはずがない。しかし、その構図が変わらないことを知ったうえで、「行動する」ことができるのならばあるいは、変わってくることがあるかもしれない。どちらだけのためでもなく、うまく働くことがあるかもしれない。その可能性を、捨ててはいけないと思う。

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2013年6月15日 (土)

本の価値

 晴れの日は気分がいい。そうだろうか。雨の日だって楽しいことはある。晴れの日だって、いやなこともある。

 宮沢賢治の本に、そういうことを言っているものがあった。なんだったか、クラムボンというものが出てくる本だ。

 寒い冬にも楽しいことはあるし、草木が芽吹く春にも悲しいことはある。どんな時も前を向いていけ、というようなものだと解釈した覚えがある。

 本を読むときに、読み方を複数持つことができる人がいるらしい。私にはとてもできない。物語にとても集中するので、先なんて予想している暇がないのである。推理小説(シャーロックホームズが好きだ)なども読むけれど、犯人というものを予想したことがないのが私の性格だ。

 推理小説の醍醐味とはなんなのだろう。犯人を推理して、主人公と同じ解決に到達してから読み終えることなのだろうか。私は、それじゃ面白くないじゃないかと思う。推理している暇を与えないくらい引き込まれる物語の方が、私は好きだ。

 基本的に、一度本を読み終えると、私は数年間はそれを読み返さない。自分の中ではその物語は終了したのであり、また苦難の道のりをたどるのはちょっと苦しいからだ。

 個人的に、読む本を選ぶ基準としているのは「出版から10年以上たっている」というのが、結構重要だ。新刊というものはほとんど読んだことがない。争って買ったのは、ハリーポッターシリーズくらいだろう。10年たっても刊行されている書物は、それなりに価値がある。自分であれこれ作家を開拓するというのも楽しいかもしれないけれど、私としてはハズレを引きたくないのである。なぜなら、読書というのはそれなりに時間がかかるものだからだ。1日のうちのかなりの時間を、たった1冊の本のために割かなければいけない。読書というのは、案外献身的な行為だとも考えられる。献身といっても、やはり本を読むのは自分のためではあるのだが、1冊読む時間があるのなら、その時間によほどほかのこともできるというものだ。

 読書は人生を豊かにする。それは音楽と一緒である。でも、できることなら読むだけで終わりたくない。音楽も同様に、聞くだけで終わるのは非常にもったいない。やってみるべきなのだ。小説を書けとは言わないけれど、読書したらそれを生かす道を考えたらどうだろう。話のタネにしてもいいかもしれないが、本を消費して、そしてそれをまた会話に消費するのではあまり意味がないのではないか?

 私は、娯楽小説というものが嫌いなのだ。読む、すっきりする、終わり。なんて生産的ではない。読書は教養を深めるためのものである、という側面を私は強く信じている。すっきりしたいだけなら、本なんて読まなくていい。スポーツをするか、映画を見る方がよっぽどすっきりする。

 実際の価値として、娯楽小説は残らない。後世に残らないのだ。ただ、娯楽小説でも読む価値のあるものがあるかもしれない。そんな時は、「出版から10年」のルールを当てはめてみるといいだろう。

 読書に関する価値観なんてものは、人によって違っていて当たり前だ。本を読んで、満足する。最終的には、そこにかかっているのだろう。

 晴耕雨読の生活。いつかやってみたいものだ。

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2013年6月14日 (金)

ネタを集めて

 手塚治虫が言った言葉に、

「アイデアなら売り出しセールをしたいくらいあるんですよ」

というのがあったと思う。そんな境地に達することができたら、それは楽しいだろうと思うのだが、別にじゃあ常にネタ切れなのか、といわれると、そういう人も少ないのではないだろうか。

 ネタなんてものは、そこらじゅうに転がっているものなのだ。人はそれに気づかないだけで、ネタなんてあふれている。あふれているどころか、私の場合は、現在視線を180度動かすだけで2つ3つはネタを見つけられる。洪水である。ネット社会になってから、情報洪水といわれているが、その通りだ。

 問題なのは、どうやってネタを見つける力を身に着けるか、ということになってくるだろうか。

 ネットが洪水なのは確かだが、すでに情報としてのっかっているものを、改めて自分のネタとするのはおもしろくない。だから、ネタを得るなら、画面から得ようとするのはよした方がよい、と私は考える。

 ネタをキャッチする感覚を育てる一番良い方法は、「書きとめること」である。どんな些細なことでもよいから、気になった瞬間にメモするのだ。それは、物理的に行う必要大である。頭の中にとどめておくのは、そのままきれいな水を、わざわざためて、腐らせてしまうようなものである。

 そして、文章にするのだ。原稿用紙に、とは言わないが、ノートでもいいので、少量、書いておく。ちょっとでいい。ネタがあって、そのネタに一言感想をつける。そうするだけで、感覚は鋭くなってくる。

 原稿用紙に書く利点としては、文字数を正確に把握することができる、ということにある。そして、達成感が大いに得られるところも大きい。原稿用紙を1枚使い切るというのは、なかなかの達成感だ。ノート1ページを使うのとは全く違う。

 ネタを見つける、考えを深くする、その作業にもっともよいのは、散歩だと私は考えている。景色は同じように見えて、一時も同じものはない。歩くと考えが整理されると同時に、新たな情報が、頭の中にも入ってくるのである。そうして常に新鮮な思考を整えておく。そうすれば、ネタなんていくらでも見つかるようになるだろう。

 逆にいってみれば、ネタが思いつかない、というのは、心身が行き詰っているのだともいえるかもしれない。

 やはり散歩はいい。リフレッシュしつつ、次の目標へ進むことができるのだから。

 ネタなんていくらでもある。この記事を読んだら、周りを見渡してみてほしい。なにが一番最初に目に留まったろう?それを書き留めたら、それはもう次へのステップなのだ。

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2013年6月13日 (木)

楽しんで書くこと

 しばらくエッセイを投稿していないので、書いてみようかと思う。

 書くということ自体は、毎日やっている。日常的な作業である。私の場合、それがちょっと普通の人と違うのは、好んで原稿用紙を使うということだろう。

 原稿用紙、と言われるだけで、アレルギー的な反応を示す人も結構いる。どうも、小学生の時の読書感想文がトラウマらしい。私だって、読書感想文の宿題は全く好きではなかった。しかしいつからだろうか、創作することが、この上なく楽しいことになったのである。

 真っ白な原稿用紙というのは、その存在自体が可能性の塊である。どんな物語だって、主義主張だって、書くことができる。ところが、「真っ白」というのは、人によっては一番厄介なものらしくて、落書きするのだってはばかられる、というのもよくあると思う。

 落書きというのは、いざ「やってください」と言われたとたんにできなくなってしまう。私の経験上はそんなものである。会議中とか、授業中とか、本来なら集中すべきことがあるときこそ、われわれ人類の落書き脳は活性化するのだ。真っ白なスケッチブックを渡されて「さあ、落書きをしてください!」といわれたら、人は嬉々として落書きをするだろうか。おそらく、 やらないだろう。「このプロジェクトをぜひ成功させましょう!」なんていわれて、プリントを渡され、だんだん退屈になってくるほど落書きはさえてくるものなのだ。

 じゃあ、私が原稿用紙に向かって何をしているのか、と考えると、それは日常の息抜きであり、息抜きという点では落書きと大差ないかもしれない。原稿を書いてお金が稼げるような身分ではないし、そもそも原稿料で稼ぎたいとは思っていない。それこそ、「さあ、やってください」と言わんばかりで、書く文章もつまらなくなってしまうのではないかと感じている。

 文章を書く上で大切なのは、思ったままを書くことなのだ。仕事とか、社会とか、そんなものを考え始めた途端に、つまらなくなってしまうものなのではないかと思う。そして、書いていくほど、「書くこと」に手馴れていくだろう。しかし、この慣れというものは厄介で、慣れないように慣れていくことが、また重要なのだ。文章は新鮮でなければならない。使い古された文章なんて、書いていても読んでいても、まったく面白くないからだ。

 楽しむこと。それが一番大事なのである。

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2013年6月 6日 (木)

懐菱 with プロフィット4519

いつものペン保管状況です。

懐菱はふところびしと読みます。

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この懐菱は、ブングボックス仕様です。違いとしては、穴が開いており、このように鹿の皮ひもが通せるようになっています。

首からぶら下げられるわけですね。

これは大変重宝しています。なにしろプロフィット4519は重いので……。これに入れておけば安心です。

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逆さにしたくらいでは出てこないくらい、万年筆にフィットしますよ。

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