2018年11月30日 (金)

フィッシャー クラッチ レビュー

ウェブのどこを探してもこのペンのレビューがなかったので書こうと思います。

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これがフィッシャーの「クラッチ」というボールペンです。

油田や製油所で働く人のために作られた、という能書きですね。

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このような見た目ですね。

ごつくて少し重いです。

重いとは言え、常識の範囲内というかわたしは気に入りました。

フィッシャーのボールペンは本体が細い物が多いですよね。

そうすると、粘度の高いフィッシャーのリフィルは粘っこくて書きづらいと感じる人もいるでしょう。

ですが、このクラッチは太軸のため、非常になめらかにフィッシャーのリフィルを使うことが出来ます。

かけることのできる力が大きくて、余裕に、疲れることなく書けます。

初期装填のF(細字)でさえです。

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強いクリップで落とすことがない、という能書きですが、確かに強いクリップです。

ですが、ごつすぎない、言ってみれば柔軟ささえあるとても扱いやすいクリップです。

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そして、持ち手ことグリップ部分です。

ここは柔らかさは一切ありません。

ですが、手になじみます。

この角が切られているところが指を圧迫する(痛い)のではと思われるかもしれませんが、この角の角度がちょうどよく、また面の大きさもよく考えられているので手にフィットします。

とても快適な書き心地です。

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どこにも説明がないと思ったので書いておきたいのですが、クラッチのリフィル交換は首部を外して行います。

アストロノートシリーズのように胴体をねじることは出来ません。

他に外れる物もありません。

そして、わたしが意外に思ったのはノック部分です。

フィッシャーのアストロノート系のペンは、ノックすると「シャキッ」という感じで機械的でかなり雑な音とともに筆記状態になります。

ですがクラッチはとてもなめらかなノックです。

ノックは硬すぎるわけでもやわらかすぎるわけでもありません。

このペンの一番意外な要素でした。

いい意味でフィッシャーらしくないと思いました。

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このように正面にわかりやすくスペースペンの刻印が入っています。

このペンの唯一の欠点を言うならば、書くときにリフィルがカチカチと音を立てることでしょうか。

それ以外は、完成度の高い、使いやすくて丈夫なペンだと思います。

ですがわたしはもとからフィッシャーのペンが好きですので、こういうなんとなくある雑さみたいなものは味わいだと思います。

もとより「油田や製油所」とのことなので、音がした方が書いているということが音響的にも理解できるかもしれません。

わたしはこのペンが大変気に入りました。

フィッシャーの粘度のあるリフィルがどうにかならないかと思っていたのですが、こういう太軸のペンを作ってくれたことによって、解決したかと思います。

もともと無重力での使用を想定して設計されたリフィルですから、非常に信頼性が高いと言えます。

さらに地球上では酷暑、極寒、水中、上向き筆記などほぼすべての局面に対応できるでしょう。

以前、wikiで「このペンの能力を有するペンは他にある」という文を読みましたが、これらすべてを両立するリフィルは他に存在しません。

太軸で、剛性の強いアルミを使った軸をラインナップしたことで、またフィッシャーは新たな段階に入ったと言えるでしょう。



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2018年11月16日 (金)

豪雨が置いてゆくもの

ゲリラ豪雨という言葉がすっかり浸透しましたね。
ちょっと前は「ゲリラ」という言葉が問題だなんて言われていましたが、既成事実は強いと改めて思いました。
ゲリラ豪雨と遭遇するようになって、会うことが増えたのがこれです。

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しばらくあまり見られなかった虹が、よく顔を見せるようになりました。

いいのか悪いのかわかりませんが、ここは結論を急ぐのはよしましょう。

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2018年10月19日 (金)

色とりどりの空

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暗い。

ですが仕方ない。

だって17時過ぎですから。

ISOもあげまくりです。

静浜基地から飛んできたんでしょうね。

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こちらは撮ったのはちょっと前ですが、チョロチョロ飛んでたので撮りました。

民間のヘリコプターですね。

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そして我らが定番、浜松基地のT-4です。

フォーメーションフライトしているようです。

訓練生頑張れ~、と念を送っています。



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2018年10月12日 (金)

壁チョロさん

我が家に新しくやってきた(いつの間にかいた)ヤモリです。
ちょっと縁起がいいねと喜んでいます。

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だいぶ黒く、大きいです。

卵まで産んでくれました。

これは期待大です。

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2018年10月 5日 (金)

日常と空

管理人は瀕死の重傷、……とかではなくて、生きてますがなかなか写真を載せる場面に恵まれない。
まあそこで、ここへ写真を載せようかと思いついた次第です。

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AWACSですね。

こんなふうに、日常的に見られるのです。

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飛ぶのはいいですねえ。

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夕方に撮ると暗いです。

わたしの300ミリレンズは手ぶれ補正がないので、シャッタースピードを落とせないのです。

400ミリがほしいところですが、それよりはカメラボディを新調した方がよいかもしれません。



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2018年8月11日 (土)

映画の鑑賞

映画を見るってことは、ひとつの芸術の鑑賞だと思います。
テレビ番組を見るのとはちょっと違います。
たとえ、金曜ロードショーであっても。
本を読むのが嫌いであったり、美術館なんて存在意義がわからない、という「芸術アレルギー」の人もいるかもしれません。
そんな方であっても映画を見ることで芸術に触れることができます。
映画というものは、監督なり脚本家なりが「このテーマで映画を撮りたい」という目的があって作っているわけですから、必ず作品に込められたメッセージがあるのです。
それに気づいても気づかなくても、鑑賞さえすれば、一応は受け取っているはずです。
テレビ番組などのエンターテインメントと映画の違いはこの「テーマ」だといっていいでしょう。
つまり、エンターテインメントは大方は中身が完結しているのです。
○○は△△だからこうなった、というように、原因と結果がわかりやすく表現されています。
ですが、映画は見れば済んでしまうというような完結型のものではありません。
見終わった者が、あれはこうだったのだろうか、主人公はこう思ったのだろうか、みんなあのあとどうしたんだろう、とか、我々観衆に解釈する余地を与えているのです。
ようく考えてみると、読書も絵画の鑑賞などもこのように「解釈」する作業があります。
そのことから、わたしは映画は芸術鑑賞のひとつだと言えると思うのです。
読書も漫画も好きじゃない、美術館へ行く金ももったいない、そんな方はぜひ、冷房の効いた映画館やおうちでのんびり映画を鑑賞してみてください。
きっと、思いもしないところで自分のこやしになることでしょう。

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2018年7月16日 (月)

お盆

夕方、窓辺にたたずんでいると迎え火の松のにおいが漂ってくる。
近くの駐車場を見ると、訪問客の車が群れている。
時折人が乗り降りしてはあいさつを交わす。
皆、軽装の喪服で、暑そうにハンカチで額を拭いている。
ふと風のにおいに魚を焼くにおいが混じっていた。
たそがれ時、この世は今生きるものと死んだもの、古い文化とそれを受け継ぐものが行き来している。

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2018年7月 6日 (金)

センセーショナルに報道すること

なんというか、報道が極端になっている気がしてなりません。
いや、報道というか社会全体がそうなのかもしれません。
例えば、1つ不祥事があると、その人や「物事全体」が否定されてしまう。
不祥事を肯定しろなんて言うわけじゃないのですが、1つ汚点があるとすべてダメになるというのはおかしい。
そして、その不祥事を追及して解決した気になっていること、追及している自らが正しいと思い込んでいる節があるのはとても危機感を覚えます。
敏感になりすぎるのは良くありません。
また、鈍感なのもいけない。
敏感すぎて、妙なところが鈍感。
言い換えれば、力を傾注するところとある程度余裕を持って考えるべきところが逆転している、そう思えます。
どうでしょうか。
確かに許容しがたい事件が起きているのも事実です。
しかし、1か0かのような、「悪い要素を少しでも含んでいれば悪」のような考え方は冷たい考え方ですね。
多様な考えの共存は民主主義の根幹です。
自分がたとえ相手の言っていることに反対の意見を持っていたとしても、相手の意見自体は尊重しなければなりません。
お互いに信用できるということが議論の大前提です。
その信用を土台として議論できるわけです。
その土台は、今ちゃんとあるでしょうか?
社会の形はどんどん変化しています。
メディアや報道の形も変わらざるを得ません。
ですが、そういう変化の速い時代だからこそ、
「自分たちが流されていないか、極端な考えに傾いていないか」
少し考える必要があると思います。

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2018年6月 7日 (木)

ストラディヴァリウス・サミット・コンサート2018

聞きに行って来ました。
「ストラディヴァリウス・サミット・コンサート」
わたしが聞いたのはプログラムAだったのですが、このコンサートでは今まで聞いたことのない曲で大満足です。
今回で聞きにいったのは3回目でしょうか。
前回から3年ぶりということになります。
今までは隔年だったのですが、何か運営など変わったのでしょうかね。
演奏者も何人か変わっています。
演奏者で特に印象に残ったのはヴォルフラム・ブランドル氏ですね。
トップで演奏されていたと思うのですが、非常に体をよく動かして見ていて楽しかったです。
楽器がいいのはもちろんなのですが、それ以上に演奏者がいいです。
いくら楽器がよくても演奏者がよくなければいい音が出るわけがありません。
観客から特に好評だった曲は、おそらくステファン・コンツ氏編曲のものでしょう。
彼は「Philharmonix」で活躍していることもあり、非常に豊かな才能の持ち主だと思います。
この曲をコンツ氏が弾き始める前、弓を見つめて集中するシーンがありました。
少しの間ですが、コンサート会場のすべての視線がそこに注がれ、極度に集中した空間を生み出したと思います。
音の良さはもちろんです。
弦楽器特有の雑音がなく、それでいて倍音がとても豊かです。
どうやったらあんなにきれいな音が出るのか教わりたい。
あの舞台に立っていたのは13人ですが、その音は素晴らしく豊かで13人どころではありません。
まるで倍の人数がいて、演奏者の周りにはあまたの歴史と以前の演奏者がいっしょに立っているかのようでした。
唯一ストラディヴァリウスではないコントラバスですが、これ1挺ですさまじく豊かな音を出しています。
並みのコントラバスではありませんね。
アンコールは2回、一方はディヴェルティメントの3楽章でこれが聞けたのは儲けもんです。
今までアンコール時にはセバスチャン・ヘーシュ氏が挨拶をされていたのですが、彼は今回のメンバーに入っていません。
誰が挨拶するかと思っていたら、ビオラのヴァルター・キュッスナー氏が流ちょうな日本語で挨拶してくださいました。
氏は公式ウェブサイトでもメッセージを寄せています。
行ってみて大満足のコンサートでした。
次はもっと「やや定番から外れた」曲にストラディヴァリウスという楽器を活かした挑戦をコンセプトにしていただきたいです。
これまでプログラムは変わったものの定番というか、ウケのいい曲ばかりだったからです。
ぜひ、聞く人の興味をくすぐる曲をたくさん演奏していただきたい。
次が楽しみです。

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2018年5月25日 (金)

死去の報道

例えば、芸能人が亡くなると実にえげつない報道がなされると思いますね。
亡くなった家族のところへ行って「どんな気持ちですか」とか、「どんな最後でしたか」とか聞くわけです。
わたしは見ていて思うのですが、テレビの報道にモラルってのはないのでしょうか。
自分の大切な人が亡くなったときにそう押しかけられて、ああだこうだと聞かれたら大変な心の傷になると思います。
ニュースは鮮度が命なんでしょうか?
伝えればいいのでしょうか?
ただ、わたしは最初に芸能人と述べました。
これが事情をやや複雑にしているかも知れません。
芸能人はある意味、扱いが違いますね。
一般人の家には確かにマスコミが押しかけることもないわけです(事件や事故で亡くなったのでなければ)。
つまりは、芸能人であったり社会に大きな影響を残した人、死によって社会が大きく動くような人は報道されるんですね。
芸能人の死を伝えればニュースが成立するという理論はちょっとと言うかかなり時代遅れです。モラルが20年ほど成長してないみたいに思えます。
まして、その人の死がいかに大きなものであっても番組中のほとんどをそれに傾ける番組は報道と呼べるかかなり疑わしいです。
日本の報道はワイドショーとニュース番組の棲み分けがすごく曖昧ですね。
さらに芸能人に関しては有名税とかいう妙な概念もありますが、その一言で片付けるのは疑問です。
今後、昭和を飾った芸能人や著名人はどんどん亡くなります。
それは人間なんですから、年を取ればやがて死ぬのは当たり前です。
けれど、それを報道するのはこれからを生きていく我々です。
その我々の考え方が進歩しなくてもいいのでしょうか。
進歩しなければなりません。
過去に浸るだけではいけない。
でも、報道という切り口から見れば、日本の報道は進歩していないと感じます。
この分野はレガシーを追いかけはしても、それを受け継いで発展させることに無頓着のようですね。
生きていくということはこれからの時代を切り開くことだからです。
先人たちが遺したレガシーは受け継ぎつつ。
今の時点で報道の仕方を見直しておくことが、先人たちの遺したものを継承し発展できるかにつながります。そうしなければ、過去を回顧して「あの頃はよかった」と現実から逃避するだけになってしまうでしょう。
この疑問はわたしだけでしょうか?
議論の余地は大きいですね。

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