2018年8月11日 (土)

映画の鑑賞

映画を見るってことは、ひとつの芸術の鑑賞だと思います。
テレビ番組を見るのとはちょっと違います。
たとえ、金曜ロードショーであっても。
本を読むのが嫌いであったり、美術館なんて存在意義がわからない、という「芸術アレルギー」の人もいるかもしれません。
そんな方であっても映画を見ることで芸術に触れることができます。
映画というものは、監督なり脚本家なりが「このテーマで映画を撮りたい」という目的があって作っているわけですから、必ず作品に込められたメッセージがあるのです。
それに気づいても気づかなくても、鑑賞さえすれば、一応は受け取っているはずです。
テレビ番組などのエンターテインメントと映画の違いはこの「テーマ」だといっていいでしょう。
つまり、エンターテインメントは大方は中身が完結しているのです。
○○は△△だからこうなった、というように、原因と結果がわかりやすく表現されています。
ですが、映画は見れば済んでしまうというような完結型のものではありません。
見終わった者が、あれはこうだったのだろうか、主人公はこう思ったのだろうか、みんなあのあとどうしたんだろう、とか、我々観衆に解釈する余地を与えているのです。
ようく考えてみると、読書も絵画の鑑賞などもこのように「解釈」する作業があります。
そのことから、わたしは映画は芸術鑑賞のひとつだと言えると思うのです。
読書も漫画も好きじゃない、美術館へ行く金ももったいない、そんな方はぜひ、冷房の効いた映画館やおうちでのんびり映画を鑑賞してみてください。
きっと、思いもしないところで自分のこやしになることでしょう。

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2018年7月16日 (月)

お盆

夕方、窓辺にたたずんでいると迎え火の松のにおいが漂ってくる。
近くの駐車場を見ると、訪問客の車が群れている。
時折人が乗り降りしてはあいさつを交わす。
皆、軽装の喪服で、暑そうにハンカチで額を拭いている。
ふと風のにおいに魚を焼くにおいが混じっていた。
たそがれ時、この世は今生きるものと死んだもの、古い文化とそれを受け継ぐものが行き来している。

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2018年7月 6日 (金)

センセーショナルに報道すること

なんというか、報道が極端になっている気がしてなりません。
いや、報道というか社会全体がそうなのかもしれません。
例えば、1つ不祥事があると、その人や「物事全体」が否定されてしまう。
不祥事を肯定しろなんて言うわけじゃないのですが、1つ汚点があるとすべてダメになるというのはおかしい。
そして、その不祥事を追及して解決した気になっていること、追及している自らが正しいと思い込んでいる節があるのはとても危機感を覚えます。
敏感になりすぎるのは良くありません。
また、鈍感なのもいけない。
敏感すぎて、妙なところが鈍感。
言い換えれば、力を傾注するところとある程度余裕を持って考えるべきところが逆転している、そう思えます。
どうでしょうか。
確かに許容しがたい事件が起きているのも事実です。
しかし、1か0かのような、「悪い要素を少しでも含んでいれば悪」のような考え方は冷たい考え方ですね。
多様な考えの共存は民主主義の根幹です。
自分がたとえ相手の言っていることに反対の意見を持っていたとしても、相手の意見自体は尊重しなければなりません。
お互いに信用できるということが議論の大前提です。
その信用を土台として議論できるわけです。
その土台は、今ちゃんとあるでしょうか?
社会の形はどんどん変化しています。
メディアや報道の形も変わらざるを得ません。
ですが、そういう変化の速い時代だからこそ、
「自分たちが流されていないか、極端な考えに傾いていないか」
少し考える必要があると思います。

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2018年6月 7日 (木)

ストラディヴァリウス・サミット・コンサート2018

聞きに行って来ました。
「ストラディヴァリウス・サミット・コンサート」
わたしが聞いたのはプログラムAだったのですが、このコンサートでは今まで聞いたことのない曲で大満足です。
今回で聞きにいったのは3回目でしょうか。
前回から3年ぶりということになります。
今までは隔年だったのですが、何か運営など変わったのでしょうかね。
演奏者も何人か変わっています。
演奏者で特に印象に残ったのはヴォルフラム・ブランドル氏ですね。
トップで演奏されていたと思うのですが、非常に体をよく動かして見ていて楽しかったです。
楽器がいいのはもちろんなのですが、それ以上に演奏者がいいです。
いくら楽器がよくても演奏者がよくなければいい音が出るわけがありません。
観客から特に好評だった曲は、おそらくステファン・コンツ氏編曲のものでしょう。
彼は「Philharmonix」で活躍していることもあり、非常に豊かな才能の持ち主だと思います。
この曲をコンツ氏が弾き始める前、弓を見つめて集中するシーンがありました。
少しの間ですが、コンサート会場のすべての視線がそこに注がれ、極度に集中した空間を生み出したと思います。
音の良さはもちろんです。
弦楽器特有の雑音がなく、それでいて倍音がとても豊かです。
どうやったらあんなにきれいな音が出るのか教わりたい。
あの舞台に立っていたのは13人ですが、その音は素晴らしく豊かで13人どころではありません。
まるで倍の人数がいて、演奏者の周りにはあまたの歴史と以前の演奏者がいっしょに立っているかのようでした。
唯一ストラディヴァリウスではないコントラバスですが、これ1挺ですさまじく豊かな音を出しています。
並みのコントラバスではありませんね。
アンコールは2回、一方はディヴェルティメントの3楽章でこれが聞けたのは儲けもんです。
今までアンコール時にはセバスチャン・ヘーシュ氏が挨拶をされていたのですが、彼は今回のメンバーに入っていません。
誰が挨拶するかと思っていたら、ビオラのヴァルター・キュッスナー氏が流ちょうな日本語で挨拶してくださいました。
氏は公式ウェブサイトでもメッセージを寄せています。
行ってみて大満足のコンサートでした。
次はもっと「やや定番から外れた」曲にストラディヴァリウスという楽器を活かした挑戦をコンセプトにしていただきたいです。
これまでプログラムは変わったものの定番というか、ウケのいい曲ばかりだったからです。
ぜひ、聞く人の興味をくすぐる曲をたくさん演奏していただきたい。
次が楽しみです。

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2018年5月25日 (金)

死去の報道

例えば、芸能人が亡くなると実にえげつない報道がなされると思いますね。
亡くなった家族のところへ行って「どんな気持ちですか」とか、「どんな最後でしたか」とか聞くわけです。
わたしは見ていて思うのですが、テレビの報道にモラルってのはないのでしょうか。
自分の大切な人が亡くなったときにそう押しかけられて、ああだこうだと聞かれたら大変な心の傷になると思います。
ニュースは鮮度が命なんでしょうか?
伝えればいいのでしょうか?
ただ、わたしは最初に芸能人と述べました。
これが事情をやや複雑にしているかも知れません。
芸能人はある意味、扱いが違いますね。
一般人の家には確かにマスコミが押しかけることもないわけです(事件や事故で亡くなったのでなければ)。
つまりは、芸能人であったり社会に大きな影響を残した人、死によって社会が大きく動くような人は報道されるんですね。
芸能人の死を伝えればニュースが成立するという理論はちょっとと言うかかなり時代遅れです。モラルが20年ほど成長してないみたいに思えます。
まして、その人の死がいかに大きなものであっても番組中のほとんどをそれに傾ける番組は報道と呼べるかかなり疑わしいです。
日本の報道はワイドショーとニュース番組の棲み分けがすごく曖昧ですね。
さらに芸能人に関しては有名税とかいう妙な概念もありますが、その一言で片付けるのは疑問です。
今後、昭和を飾った芸能人や著名人はどんどん亡くなります。
それは人間なんですから、年を取ればやがて死ぬのは当たり前です。
けれど、それを報道するのはこれからを生きていく我々です。
その我々の考え方が進歩しなくてもいいのでしょうか。
進歩しなければなりません。
過去に浸るだけではいけない。
でも、報道という切り口から見れば、日本の報道は進歩していないと感じます。
この分野はレガシーを追いかけはしても、それを受け継いで発展させることに無頓着のようですね。
生きていくということはこれからの時代を切り開くことだからです。
先人たちが遺したレガシーは受け継ぎつつ。
今の時点で報道の仕方を見直しておくことが、先人たちの遺したものを継承し発展できるかにつながります。そうしなければ、過去を回顧して「あの頃はよかった」と現実から逃避するだけになってしまうでしょう。
この疑問はわたしだけでしょうか?
議論の余地は大きいですね。

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2018年3月 4日 (日)

本屋にがっかり

あなたには秘められた力がある。
あなたはやればできる人だ。
なぜなら、このとてつもなくマイナーなブログを見つけて読むことができたからだ!

……というようなありがちな話しなんですが、本屋へ行ったらこういう本ばっかりなんです。
がっかりして帰ってきました。
これじゃあ、紙の本も売れなくなるよなあ、と思った次第です。

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2018年2月 2日 (金)

発見!! The Master piece

今回、ひさしぶりに感激する筆記具を購入したのでご紹介します。

鉛筆削り、The Masterpiece です。

さて、いきなりですが濃い話に入りたいと思います。

わたしは鉛筆は削ったときに木の部分と芯の部分が長いのが好みです。

持ち運べる小型タイプほどこの削り先が短い傾向にある気がしていました。

では、わたしが達したひとつの結果を以下の写真とともにご説明しましょう。

1枚目の写真からです。

一番上が、The Masterpieceで削ったものです。

すさまじく長い、最高のできあがりです。

ほれぼれします。

真ん中は、デビカのAXIS削りです。

デビカのAXIS削りは電動鉛筆削りです。

一番下はカール事務器のエンゼル5プレミアムです。

もちろん、3本ともに一番とがらせた状態です。これ以上回りませんし、削れません。

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2枚目は、The MasterpieceとDUXの4112削りで削ったもの。

DUXは極端に短く、わたしは鉛筆がよっぽど短くなったときにしか使いません。

申し訳ないことに、このハイユニは尖っていません。

ただ、尖った状態でどうなるかは芯が見えていますから想像していただけると思います。

円錐をそのまま伸ばした状態を想像すればいいのです。

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というわけで、とてつもなくニッチな情報になってしまいましたが、もし鉛筆が好きな方で手削りの芯先が長く削れるものをお探しの方がいらっしゃったら、The Masterpiece一択でしょうね。

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2018年1月29日 (月)

口内調味

聞いたことありますか? この言葉。
「口内調味」
要するに、日本食の食べ方の特徴らしいです。
わたしは数年前に初めて聞いて、とても印象に残っています。
つまり、日本食は一汁三菜とかいうように、米があり、そして副菜がありますよね。
例えば、おかずを食べて、そしてそれの味をよくするために米もいっしょに食べる。
日本的文化圏に育った人なら何気ないことかもしれませんが、海外では理解しがたい、と聞いたおぼえがあります。
なんだ、魚とか(おかず)を食ったら米を食いたくなるだろう、と思うのはそれは日本の文化圏で育ったからです。
口内調味をしない文化圏では、料理はごく簡単です。
全部いっしょなのです。ハンバーガーみたいに。
一口食べればその中で完結している。
これが典型です。
けれども、日本料理はおかずとお米、お汁とお米をいっしょに食べることでご飯が口の中で完成します。
さらに、自分の好みに合わせてその組み合わせや量まで、自在に調整している。
これが日本食の深さだ、という理論でした。
でもまあ、口内調味自体は程度の差はあれ、たぶんどこでも行われているでしょうね。
これはワインの文化圏で言えば、きっとチーズとワインのマリアージュといった具合で理解されるでしょう。
こういうお酒との組み合わせなら案外あるかもしれませんが、毎食それをやっているのが複雑きわまりなく面白いのだ、ということのようです。
なるほど、我々は口の中でもう1回ご飯を料理しているというわけですね。
とは言っても、それを意識することなんてありませんから、う~ん、これを海外の方に説明してわかってもらうなら、日本にしばらく住んでもらうしかなさそうですね。

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2018年1月 5日 (金)

新年、おめでとう

あけましておめでとうございます。

当ブログは無事に新年を迎えることができました。

今年、どんな更新をし、どのようなモノが載るかはまだ決まっていませんが、日々取り組んで行きたいと思っています。

お楽しみに。

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2017年11月24日 (金)

投書か、ブログか

この頃割とけっこうな頻度で新聞に書するのですが、なかなか載りません。
これは案外とこたえます。
期待しますし、書くのも本気なので。
そう考えると、ブログに書くのも頻度が減ってしまったのですがこれだけ載らないと、書かないことには気分が乗りません。
腹いせとはまた違うのですが、書いたものはやはり何らかの形でオープンにしないと埋もれてしまうからです。
載るときはけっこう載るんですけどね。
機微を捉えた投書は載りますよね。
例えば傾向を対策を練るなら、投書してから1週間で載るとして、1週間先にありそうな政治的スケジュールや国際問題・国内問題などを捉えて書いてしまう、というのもありかもしれません。
プロ相手に投書するならやっぱりそういう分析と傾向を腹黒くやるのも大事でしょう。
ブログは気楽です。
人様に迷惑をかけず、法に触れず常識的な範囲だったら何を書いてもいいわけですから。
書くのは楽しいです。
形になるのは、もっと楽しいです。

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